いろは丸沈没
- 2020年1月4日
- 読了時間: 5分
更新日:6月15日
紀州藩は幕府側の要
いろは丸事件
幕末の風雲児「坂本龍馬」が、海の上で起こした一大事件――「いろは丸事件」の舞台裏を今に伝える場所です。
館内には、沈没した「いろは丸」から引き揚げられた遺物や、事故の状況を再現した展示があったり、龍馬が鞆の浦に滞在した際の隠れ部屋の再現などがあります。
まるで幕末ドラマの現場に入り込んだような感覚になります。

兵庫県神戸市にある「神戸海軍操練所」で幕臣「勝海舟」のもと、船の操縦を猛訓練してきた高知の脱藩浪士「坂本龍馬」
時は1867年(慶応3年)竜馬は旧亀山社中の同志を率いて、蒸気船「いろは丸」で乗組員と共に鞆の浦沖を大坂へ向かって航行していました。そのとき事件が起こったのです。
瀬戸内海で、紀州藩の大型蒸気船「明光丸」と衝突。”ド―――ン!”まるで現代の交通事故ですが、相手は車ではなく巨大船。しかも相手は紀州藩。当時の幕府側に近い大藩です。
小さな海援隊の船が、大藩の軍艦にぶつかっってしまったわけです。普通なら「あちゃぁ、これは相手が悪すぎた――」と引き下がりそうな場面です。
しかし、そこにいたのはあの「坂本龍馬」!龍馬は違います。「おいおい、話が違うぜよ」といわんばかりに紀州藩相手に堂々と交渉を始めます。
自分に置き換えてみてもなかなか出来ることではありませんよ。絶対に非を認めない集団と分かっている相手にいえます?国家権力相手に?
この時代にも、損害賠償交渉と称される様なものがあったようですが、今の法制度とは恐らくかけ離れており、弱肉強食の世界であったのではないでしょうか。
それが「いろは丸事件」ですね。面白いのは幕府側の「勝海舟」と討幕派の「坂本龍馬」が一緒にいること。「志」でつながっていたのでしょうか。
〒720-0201 広島県福山市鞆町鞆843−1「いろは丸展示館」
事故後、いろは丸は鞆の浦へ向けて曳航されましたが、途中で沈没してしまいます。龍馬たちは鞆の浦に上陸したのち紀州藩との話し合いに入ります。
事故から話し合いまでの間、坂本龍馬はどの様に思考を巡らせていたのか、個人的に「めちゃくちゃ」気になります。出たとこ勝負?そんなはずはないかと・・・。
ここからが面白いところ。
紀州藩:「まあまあ、事故ですから・・・お互い様ということで」
海援隊:「いやいやなんでやねん、そちらの船が大きかったですよね?」
紀州藩:「でも、そちらの操船にも問題が・・・」
海援隊:「はぁ?何の問題やっちゅうねん。ほな「万国公法(国際的な海のルール)」で判断しましょうや」
まるで現代の法廷ドラマです。龍馬は、ただ怒鳴り込んだわけではありません。新しい時代のルールを武器にして交渉したのです。頭に入ってたんですねぇ。知識って武器ですね。

とはいえですよ、坂本龍馬が土佐の脱藩浪士。いわば指名手配犯ですから「お身柄拘束」のうえ「強制帰国」ならぬ「強制帰藩」とかのリスクはどう考えてたんでしょうか。
積荷もろとも、海底に沈んでしまった土佐商会(海援隊の所属)の船は甚大な被害を受けました。現在の価格にするとおおよそ30億円に相当するそうです。
それを紀州藩に支払うように訴訟しました。この時代、物騒な世の中です。「文句を言う奴は消してしまえ」で、竜馬は隠れ部屋にて身をひそめ4日間でけりを付けたそうです。
なんとなんと!あり得ない裁定が下されるのです!この事件で「坂本龍馬」は紀州藩から賠償金を得ることに成功してしまいます!!!持ってる男は持ってますよね。
考えてみればすごい話です。相手は親方日の丸の紀州藩に対して、こちらはお尋ね者集団の脱藩浪士組の寄せ集め「海援隊」では当然、身分も権力も圧倒的に違います。
それでも龍馬は「大きい船だから偉い」とか「大藩だから正しい」という古い価値観に真っ向勝負で挑みました。まさに幕末という時代の象徴です。
生きてお会い出来たなら、ぜひ伺ってみたい訳です。「ダメもと交渉だったのでしょうか」
或いは「教科書にも載せられないような手段や方法」を用いて切り崩したのでしょうかと。

いろは丸展示館がさらに魅力的なのはいろは丸事件だけではありませんよ。
今こうしてこの鞆の浦という港町に立っていると、龍馬の足跡を感じられるのではと思う場所だからです。
江戸時代から栄えた港町で、潮風を感じながら歩くと「ここで龍馬が紀州藩と渡り合ったのか」と想像が膨らみます。
今も趣のあるこの通り。言っても150年くらい前の話ですから、おそらくこの通りも竜馬は歩いたのでしょうね。
いやぁ、この通りで「坂本龍馬」とすれ違ってみたい!

この鞆の浦近海は、海上の障害物も多く、船が故障したり破損したら、修理してくれるところがいっぱいあったのでしょう。
このような船具店もひしめき合って栄えていたのでしょうね。
鞆の浦の港には「焚場(たでば)」という船のメンテナンス場所があったそうです。木造船は海に浮かべていると船底に貝や海藻が付きますよね。
そこで船を浅瀬に上げて「船底を焼いて乾燥させる」という作業をしました。
この焚場には、1800年前後で年間約900隻もの大型船が入った記録もあります。900隻ですよ。
1日に2〜3隻ペース。そりゃあ船具屋さん、忙しいはずですよねぇ。

これはシンボルでもある常夜燈。1859年に建造されたようです。鞆の浦は「潮待ちの港」としても繁栄し、活気にあふれた港町だったようです。
港の西側にある「雁木(がんぎ)」の先端に立ち、海中の基礎部分を含めると高さは10mを超える巨大な石造りの灯台です。
この燈の南面には「金毘羅大権現」、北面には「当所祇園宮」と文字が彫り込まれており海上の安全を祈願し、守護神に寄進する燈籠の形になっているようです。

ちなみに「金毘羅大権現」とは、香川県多度津郡琴平町に鎮座する金刀比羅宮の旧称で金毘羅とはインドのガンジス川に住む「鰐」を神格化した「水神」の名前だそうです。
信仰の中で讃岐象頭山に鎮座の神として神仏習合して金毘羅大権現となったそうです。

いろは丸事件で坂本龍馬が鞆の浦へやって来た時――この常夜燈は既に港に立っていました。
皆さんぜひ一度目をつぶって想像してみてください。沈没した「いろは丸」と紀州藩の巨大船「明光丸」のことを。
そして港に集まる商人、船乗り、船大工。夜になると常夜燈の火が揺れる。蛍光灯とかLEDとかではないですよ。風に揺らめく炎!
その光を見ながら龍馬は「ここで一発話をつけるぜよ」と紀州藩との交渉に挑んだのかもしれません。まさに幕末ドラマの一場面です。
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