豊後の戦国大名はキリシタン
- 2020年8月24日
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九州は大分県、ここにはかつて北九州6ヵ国を納め「豊後の国」と呼ばれ、戦国時代を生き抜いたひとりの大名がいました。その名は「大友宗麟」(おおとも そうりん)
ただ、異色を放つ戦国武将だったことは有名と言えば有名です。
そう彼は、鉄砲とキリスト教という“新しい力”に魅せられながらそこに運命を賭けた、類を見ない大名でした。

大名「大友宗麟」
ここ「臼杵城」は「海に浮かぶ要塞」として「大友宗麟」によって築城されました。臼杵城はもともと「丹生島城(にうじまじょう)」と呼ばれていました。
丹生島は当時、周囲を海に囲まれ、干潮時だけ陸続きになる天然の要害でした。そのため敵が容易に攻め込めない極めて防御力の高い城だったのです。
島の形が亀に似ていたことから「亀城(きじょう)」とも呼ばれました。
〒875-0041 大分県臼杵市臼杵丹生島
現在は城跡として整備されていますが、その歴史的価値は非常に高く、九州戦国史を語るうえで欠かせない存在となっています。
大友宗麟は1559年に豊後・肥後・肥前(佐賀県)に留まらず、加えて豊前(福岡県)・筑前・築後の守護職を室町幕府13代将軍「足利義輝」の命により任されるようになるのです。
まあ、裏で巨額の献金を差し出していたようです。
これによって幕府という後ろ盾を得ることができたことで、中国地方に攻め込んで領土拡大をしても咎められなくなり、それどころか中国地方を仕切っている「毛利元就」に味方することは「大友宗麟」に対する逆賊と認定されることになっていきます。
その後何度か「毛利元就」が攻め込んできたのですがこれを一蹴し、九州地方は大友宗麟により盤石な基盤であったようです。
とはいえ、戦ともなると大将は軍配をもって陣頭指揮するかと思いきや、実際武功を挙げていたのは側近の家臣「立花道雪」等だったようです。
キリスト教信者
大友宗麟がなぜキリスト教信者になったのか。このころから他国との貿易が行われ、その玄関口となっていた九州地方では異国人との関係もどんどん広がっていたようです。
もちろん商売が盛んに行われれば、経済的にも発展し、異国の文化に触れ、知識や見聞もひろがり豊かになる、だけでなく同時に新興宗教の宣伝もしやすくなるわけです。
みなさん歴史の教科書でインパクトがありすぎて、顔まで覚えているのではないかと思うのですが、そう宣教師「フランシスコ・ザビエル」と彼は1551年に出会っているようです。
ここは、豊後の国。戦国時代最盛期には、九州地方の6か国を支配した戦国武将大友宗麟が君臨した場所。

臼杵城最大の功績としては、やはり九州南方を支配していた島津軍の侵攻を食い止めたことが挙げられます。
1586年、九州統一を目指す「島津義久」・「島津義弘」率いる島津軍が北上すると、丹生島城は激しい攻防戦の舞台となりました。
「丹生島城の戦い」では大友方が大砲「国崩し」を使用して抵抗し、島津軍の猛攻をしのぎましたよね。この戦いは豊後防衛の重要な転換点となりました。

これは大友宗麟が命名したと言われる日本最初の大砲だそうです。
その名も「国崩し」。レプリカでも大きく、まともに食らったらその威力の前にたじろいでいたのではないでしょうか。島津軍に大きな損害を与えたとされているようです。
本丸の手前にあるこの空堀、まあまあ深いですよね。攻め込むには一苦労も二苦労もしそうです。

臼杵城の魅力は天守閣の壮大さもありますが、それだけではありません。
臼杵城跡を歩くと単なる城跡ではなく「宗麟」が描いた「国際都市・臼杵」の夢を感じることができます。
戦国時代の九州で、これほど先進的な発想を持った大名は決して多くありませんでした。だからこそ臼杵城は「大友宗麟の挑戦の象徴」と呼ぶにふさわしい城なのです。
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