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講和を条件に切腹

  • 2019年6月13日
  • 読了時間: 6分

武士の鑑「清水宗治」の生き様


ここには「備中高松城」・・・は既にございませんでしたが、貴重な資料館と本丸跡等がありました。


現在この地を訪れると、のどかな田園風景が広がり城跡は静かな史跡として佇んでいます。

しかし、天正10年(1582年)この場所は日本史上屈指の壮絶な攻防戦の舞台となりました。


そしてその中心にいたのが、備中高松城主である「清水宗治」です。


彼の名は「敗れた武将」でありながら、多くの人々から今なお敬意を集めています。はたしてそれはなぜなのでしょうか。


そこには、勝敗を超えた「武士道」の姿があったからだと思うのです。


木々に囲まれた公園に、漢字の碑文が刻まれた大きな石碑が立つ。奥に芝生と柵が見え、静かな雰囲気。

清水宗治 辞世の句「浮き世をば今こそ渡れ武士の名を高松の苔にのこして


16世紀後半。戦国乱世を終わらせようとしていたのが、天下人への道をひた走る「織田信長」でした。


次々と有力大名を打ち破るも、中国地方にはまだ「毛利氏」という巨大勢力が立ちはだかっていました。


信長はその攻略を家臣の「羽柴秀吉」(後の豊臣秀吉)に命じます。秀吉は驚異的な超速で中国地方を制圧し、やがて毛利方の重要拠点である備中高松城へ軍を進めました。


しかし、この城がそうやすやすと簡単には落城しないのです。なぜなら城主が「清水宗治」だったからです。


清水宗治というと「武士の中の武士、侍の中の侍」だった男として取り上げられます。宗治は毛利家の家臣でした。


またけして華麗なる家柄の出身ではありませんでした。しかし誠実で義理堅く、部下や領民から深く慕われていました。


戦国時代には珍しく、人望で人を従わせる武将だったと言われています。備中高松城は沼地に囲まれた天然の要害でした。


〒701-1335 岡山県岡山市北区高松558−2


清水宗治方約5,000のの兵に対し、中国攻めを進める織田信長方約30,000の兵が激突。普通に考えれば勝負は見えていました。


しかし宗治は降伏しないどころか城兵たちも逃げださなかったのです。彼らは宗治という人物を信じていたからでした。


この圧倒的大差でありながら必死の抵抗と、周りが沼地であった立地条件で敵方に難攻不落の城と言わしめさせ、信長家臣の秀吉をイライラさせたそうです。


羽柴秀吉」も負けておられません。のちに「天下統一を成す男」が考えた前代未聞の作戦を捻り出すのです。


城を囲んだ秀吉は頭を抱えこんでいました「攻めても落ちない」「時間をかければ毛利本隊が来る」そこで秀吉は奇策を考えます。


実際に考えたのは軍師「黒田官兵衛」だったと言われています。彼は「水攻め」を献策します。


城ごと沈めてしまえ



高松城周辺は低湿地帯だということに着目し、秀吉は堤防を築いて近くを流れる川の水をせき止めました。わずか十数日で巨大な堤防が完成させるのです。


そこへ雨も重なって水位はみるみる上昇するわけです。すると城の周囲は湖のようになりました。これこそが日本史に名高い「備中高松城水攻め」なのです。


城は完全に孤立してしまいます。兵は濡れて動きが鈍くなりやがて食料は尽き始めます。周囲には無数の敵で逃げ場はどこにもありません。


読んでいるだけでも息苦しくなるような状況です。しかしそれでも宗治はなおも戦い続けました。


水没寸前の「清水宗治」にお味方である「毛利勢」と「小早川勢」が備中高松城付近に参上するも容易に近づくことができず、城を挟んでの睨み合いが続きます。



激震が走った先にあった条件

じつはその頃に京都では歴史を揺るがす大事件が勃発していたのです。「本能寺の変


敵は本能寺にあり」のアレです。信長が家臣の「明智光秀」の謀反によって「織田信長」がまさかのまさか、討たれてしまったのです。


この知らせを受けた秀吉は衝撃を受けました。動揺と冷静さが激しく入り混じりながらもこの情報を秘匿したまま毛利との講和を急ぐのです。


一刻も早く京都へ戻り「明智光秀」を討たねばならない秀吉はある条件を提示します。


高松城は城将・清水宗治が切腹することで城兵は助命する」といったあまりにも重い条件でした。


しかし、総大将の「毛利輝元」はこれを頑として承知しません。忠臣・清水宗治を切腹させるは断じてならぬと撥ね退けたのです。


宗治はこれを仲介役から聞き受けてこう言ったそうです。


暗い木造の室内で、額に傷と血のある侍風の男が胡坐で座り、うつむいている。荒々しく緊張感のある雰囲気。

毛利の御家の安否よりも、それがし如きを重んじてくださいましたこと、わが面目、これに過ぎるものはありません。かくなる上は一命をなげうち、毛利家のお役に立ちたく存じます」と。


宗治には選択肢があったはずです。最後まで戦うこともできたでしょう。城兵と共に玉砕することもできたでしょう。しかし彼は違う道を選ぶことになるのです。


自らの命一つで、部下たちを救う


宗治はその条件を受け入れました。


天正10年6月4日 湖となった高松城の水上に浮かぶ小舟の上で宗治は切腹します。その最期は敵味方を問わず感動を呼んだと伝えられています。


その時に詠んだとされる辞世の句が先に挙げたものです。


死を前にしてなお自らの運命を受け入れる姿、その光景を見た「羽柴秀吉」は深く感銘を受け「清水宗治は武士の鑑であった」と言ったそうです。


公園の木立の前に立つ、苔や地衣類に覆われた大きな石碑。中央に漢字の刻字があり、静かな雰囲気。

ここに関して現代人の感覚では通常理解しづらい部分があります。「なぜ命を惜しまなかったのか」・「なぜ降伏しなかったのか」・「なぜ自ら死を選んだのか


戦国の世、後に関東一円を掌握していた名門北条家「北条氏政」も最後まで「降伏はせん!」といった姿勢を崩しませんでした。他にも同様の行動をとる武士はいました。


武士道の本質は単なる勇敢さではありません。「自分の利益よりも守るべきものを優先する覚悟」にあります。


宗治が守ろうとしたのは名誉だけではありません。家臣であり、領民であり、主君への義でした。


彼は自分が生き残る道より、多くの人が生き残る道を選びました。もちろん現代社会で切腹を美化する必要はありません。


しかし、自らの責任を引き受ける覚悟や、仲間を守るために損得を超えて行動する精神には、今なお学ぶべきものが多くあると思うのです。


松の木の下に石塔と木製の案内板が立つ静かな墓所風景。看板に「清水東原五輪塔」と彫られている。

今こうして備中高松城跡を歩いていても、激しい戦の音は当然聞こえるわけではありませんし、聞こえてくるのは風が吹き、田んぼが揺れ、静かに流れる時の音だけです。


しかしその静寂の下には、宗治が命を懸けて守ろうとした人々の歴史をすこし感じることができます。


勝者である秀吉の知略と、敗者である宗治の覚悟が交差した場所です。そして何より「人は何のために生き、何を守るために死ぬのか


という普遍的な問いを、今も私たちに投げかけている場所なのだと感じ取ることができると思うのです。


備中高松城を訪れたなら、ぜひ「堤防跡」や宗治の「首塚」にも足を運んでみてください。


そこで感じる静けさは、戦国の英雄たちが残した物語の余韻であり、武士道という精神の残響なのかもしれません。



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