岩に手形を残した
- 2019年4月18日
- 読了時間: 6分
更新日:5月24日
盛岡城は新政府軍の直轄地
わんこそばでお腹がはち切れそうな状況を打破するため、向かった第13の目的地がここです。ここで跡地をぐるりと散策して歩き回ります。
今いる場所は岩手県盛岡市内丸1「岩手公園内」です。盛岡城跡初代盛岡藩主、南部信直は安土桃山時代に豊臣秀吉から南部七郡の領土を認められていました。
ここには北奥羽を支配した南部氏の威信、戦国から江戸へと移り変わる日本史の激動、そして明治維新による近代化の波に呑み込まれた城郭文化の運命が凝縮されています。

1591年、豊臣秀吉の家臣「浅野長政」の助言を受け、「南部信直」は新たな城の建設を不来方に移転すると決意しました。正式な築城開始は1598年。完成までには実に30年以上を要したとされます。
この地が選ばれた理由は極めて戦略的でした。「北上川と中津川の合流地点」であり「丘陵地形による天然の防御力」が望め「城下町形成に適した交通の要衝」が可能であると踏んでのことでした。
つまり盛岡城は、「軍事拠点」と「政治都市」の両方を兼ね備える計画都市の中心だったのです。
現在は市民の憩いの場として親しまれていますが、石垣に触れながら坂道を歩くと、かつてここに巨大な近世城郭がそびえていたことを実感できます。
不来方(こずかた)とは「かつてこの地には羅刹と呼ばれる鬼がいて、人里を荒らしまわっていたため、困った里人が三ツ石の神にお願いしたところ、鬼は神によって捕らえられ、この時鬼が神に二度とこの地に来ない証として、岩に手形を残した」と言い伝えられているそうです。
これが後の「岩手」と称される由来とか。
〒020-0023 岩手県盛岡市内丸1−37
盛岡城最大の特徴は、なんといっても壮麗な石垣です。東北地方の城は土塁主体のものが多いのですが、盛岡城は全面的に石垣を採用した「総石垣造り」となっています。
これは当時極めて珍しい存在でした。その理由は二つあるとされています。
一つ目は一盛岡周辺は良質な「花崗岩」の産地だったこと。二つ目に、豊臣政権の築城技術が持ち込まれたことです。
花崗岩とは地下深くでマグマがゆっくり冷え固まった「深成岩」の一種で、石英や長石を主成分とするため硬くて耐久性に優れているのが特徴で、今でも建築資材や墓石として広く利用されています。
実際、縄張りには豊臣系城郭の影響が色濃く見られ、大坂城にも通じる近世城郭の思想が感じられます。北国の城でありながら、西日本的な豪壮さを持っている点が実に興味深いのです。
意外に思われるかもしれませんが、盛岡城には正式な天守がありませんでした。本丸には立派な天守台が築かれていましたが、実際には「御三階櫓」が置かれ、天守の代用とされていました。
江戸幕府への遠慮が背景にあったとも言われています。天守閣? ありません。 しゃちほこ? そんなものはありません。そう答えられるようにしてたのでしょうか。
じつは、築城後まもなく本丸の三重櫓などが落雷によって焼失しています。その後再建が進み、石垣もさらに大規模化されました。
特に江戸時代中期には、北上川の流路変更に伴って高石垣が築かれ、現在私たちが目にする壮観な姿へと発展していきます。
石垣をよく見ると「野面積み」・「乱積み」・「布積み」など、時代ごとの工法の違いも確認できます。他のお城でも見る機会はありましたが、これは城好きにはたまらない見どころです。
しかしまあ、そびえる石垣を眺めているといつも思うのですが「どうやって運んだんだこれ・・・」です。

戊辰戦争
そんなこんなで完成後も改修を続けてきた「盛岡城」も時代の流れには逆らえませんでした。明治維新は全国の城に厳しい運命をもたらしました。
その後、明治維新後の戊辰戦争にて、盛岡藩は降伏し、盛岡城は新政府軍の直轄地となり1871年の廃藩置県で盛岡藩は盛岡県となります。
さらに時が過ぎ、陸軍省所轄となった1874年には建物のその大半は取り壊されてしまいます。天守代用櫓も、門も、御殿も失われました。
現在残るのは主に石垣だけです。非常に残念です。見たかったと悔やむばかりです。
見所は石垣だけではありませんのでご安心ください。ここ盛岡城跡公園は、四季の景観も素晴らしい場所です。
春は桜、秋は紅葉が石垣を彩り、歴史的景観と自然美が融合します。特に花崗岩の白さと桜色の対比は見事だそうです。

石川啄木と盛岡城
じっと手を見る
石川啄木 は岩手出身で盛岡との関わりはかなり深いです。彼は若い頃、盛岡で文学活動をしたり、新聞社で働いたり、とにかく「夢を追う若者」を全力でやっていました。
しかし現実は厳しいわけです。「金がまったくない」・「仕事がまったく続かない」・「理想は超絶高い」・「自意識は宇宙サイズ」なんとも扱いづらそうな若造です。
現代風で言えば「スタートアップやる!」と意気込んでカフェでMacを開いているタイプに近いのではないでしょうか。ただしSNSがない時代なので、短歌にしました。
その結果生まれたのがこの有名な短歌ですね。
「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりじっと手を見る」
これは石川啄木の第一歌集『一握の砂』に収められた有名な短歌ですね。「どんなに働いても暮らしが少しも楽にならない」という貧困と疲労、そして絶望感を、自らの「手」を見つめるという静かな動作で見事に表現した名作です。
いやいや重い。急に現実にひきも出されるこの感じ。ただ、この“人生うまくいかない感”が盛岡城の石垣と妙にマッチするんです。

というもの、実際に盛岡城跡公園を歩くとなんとなくわかってきます。石垣がこう、なんというか――無言なんですよ。「人生って簡単じゃないよね」みたいな顔をしているわけ。
春には桜が咲きます。夏には緑が映えます。秋は紅葉。冬は雪。なのに石垣だけはずっと、
「で、お前はどう生きるの?」みたいな圧を出してくるわけですね。
彼にとって城跡というのは今でいう「夜の河川敷」みたいなポジションだったのではないでしょうか。
つまり「将来どうしよう」・「自分は特別な人間なのか」・「東京行くべき?」・「ていうか金ない」みたいなことを考える場所。
彼もおそらく盛岡城周辺を歩きながら「俺はこのままで終わる男じゃない」と思った5分後には「でも家賃どうしよう」となっていた可能性が高い。
この“ビッグマウスと現実の往復ビンタ”こそ彼の文学の魅力ではないでしょうか。

櫻山神社(改修工事中で中には入れませんでした)
不思議なことに、100年以上前の啄木の悩みは、令和の我々にも完全に刺さります。刺してきます。捻じ込んできます。グサッと。
「頑張ってるのに報われない」・「SNSで他人が輝いて見える」・「将来が不安」・「でもプライドは捨てたくない」はいこれ、全部啄木なんですよ。現代の若者は皆啄木ですね。
つまり彼は「明治時代のX(旧Twitter)」文学者なんです。短歌の文字数が少ないのも現代人向き。140字どころか31文字。はい圧倒的タイパ!。
「不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸われし 十五の心」石川啄木の歌碑です。
尾崎ですね。豊。
当時、お城から200mと離れていない盛岡中学校で学んでいた石川啄木が、窓から抜け出してここで書物を読みふけっていたそうです。
やっぱり尾崎ですね。・・・いやまてよ――豊が啄木なのかな?

烏帽子の形をした盛岡市民の守り神がありました。この岩は南部信直公がこの地に築城する際に出現し、瑞兆(ずいちょう)と喜んだそうです。
それ以来、「宝大石」として大切にし、この岩の前で神事が執り行われてきたそうです。
関連記事







コメント