in大分県⑲

大分県訪県中最後に絶対見ておきたかった場所。「中津城」です。

〒871-0050 大分県中津市二ノ丁本丸 別名:扇城

ここ中津城も、多分に漏れず、幾多の試練を時代と共に駆け抜けて参りました。

築城主は黒田孝高(軍師:官兵衛)であり、完成させたのは細川忠興と伝えられています。その後は小笠原氏、奥平氏へと受け継がれていますね。現在ある天守は昭和39年(1964年)に旧藩主奥平家が中心となって市民からの寄付金と合わせて築城されたものです。日本三大水城(今治城「愛媛県今治市」と高松城「香川県高松市」)の一つ。

特徴的なそのフォルムは、石垣から張り出した傍射装置のあるお城ですね。

実際の所、現在のお城は、模擬天守であり、もともと天守があったのか、どの位置にあったのか等は正確には解っていません。再建時は、山口県にある萩城をモチーフにして建てられたお城なのです。

そして、悲しい事に、奥平氏の子孫が運営する会社がこの中津城を所有していたのですが、台所事情が厳しく、2010年に福祉事業会社に転売されています。

九州平定を成した豊臣秀吉から、豊前六郡を与えられた黒田孝高は築城を開始しますが、地元の反発にあい、工事が進みません。そのさなかに起こった「関ヶ原の戦」で多大なる功績を残した黒田家は筑前52万石に大抜擢され、工事途中で中津の地を去るのです。続いて中津を領有したのが細川忠興なのですが、その翌年には小倉城を本拠としたため、嫡男の忠利が再建を始めます。その忠利も肥後熊本へ転封し、以後明治維新までは奥平氏によって領有されます。

三河の国の小さな豪族だった奥平家が10万石の大名に名を連ねる事が出来たのは、長篠設楽原の戦において、甲斐の国(現在の山梨県)を拠点とし、関東一帯に勢力を誇った甲斐の虎、戦国最強の騎馬軍団を率いる武田信玄を、織田方についた徳川軍率いる連合軍が激戦の上、勝鬨を上げ、それまでの歴史を変えた戦において、武功を上げたことがきっかけです。その際に、織田信長公より最高武勲と讃えられ、信長公より「信」の一文字を与えられ名前を貞昌から信昌と改めます。

東には二重の、南には三重の堀をつくり、外堀には「おかいこ山」という土塁を巡らせたそうです。堀の深さは水門から海水が入ってくるため、潮の満ち引きで上下する仕組みのなっているとか。

「おもひおく 言の葉なくて つひにゆく みちはまよわじ なるにまかせて」

黒田孝高辞世の句です。

この世に思い残すことは既に何もない 今は迷うことなく旅立ちのひをまつの意

幼少期から、学問を究めようとするがあまり、厠に行く時間も勿体なきゆえ、よくお漏らしをしていたとか。孫子の兵法はその後の軍略に多大な影響をもたらしたとか。「三千の兵を、たった三百の兵を以って蹴散らし」戦上手と世に知らしめ、鳥取城攻めに至っては兵糧攻めを敢行し、高松城は水攻め、小田原城では見事な調略により無血開城させた功績は、秀吉でなくても、舌を巻く事だったでしょう。

「官兵衛がその気になれば、ワシが生きている間にも天下を取っている」とまで言わしめたそうです。

また、愛妻家であったことは有名な話。

戦国時代の武将の兜は、石田三成の黒髪状の飾りに天を衝く大きな脇立であったり、直江兼続の愛宕権現と愛染明王から頂いた愛一文字、伊達政宗の三日月や、真田幸村の鹿角と脇立に六文銭など、身命を賭して励み、相手を威圧するものであったと思いますが、官兵衛の兜はお椀を逆さにした形。これは、妻の光姫の父親から祝言の際に送られた合子で、「合子とは椀と蓋 一対になった器」分かち難い夫婦の間柄を表したものだそうです。キリシタンでもあった官兵衛は、生涯側室を持たず、その生涯を妻と共に家族を大切にしたと言われています。

途中で、建築主が変わったせいで、なかなか面白い物を見る事が出来ます。本丸北側にある石垣ですが、石垣に「Y字」の目地があるんですね。非常に違和感があります(笑)四角く加工された石が黒田、丸いままの石が細川が積んだとされています。

実は、築城にあたって黒田孝高は、川上にあった「唐原山城」の石垣を、目の前を流れる川を利用して運ばせたそうです。この地は、北は周防灘、西は豊前海に流れ込む山国川の河口に面していて天然の堀を生かした城の建設を考えていたのでしょう。

その後、明治維新に伴い、お城の大半が破却されることのなります。しかし、中津藩士であった、あの「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」で有名な「福沢諭吉」の進言で御殿だけは残されました。しかしながら、この御殿も、1877年に起こった「西南戦争」で焼失してしまいます。

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