決心して断行すれば
- 2020年1月8日
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更新日:1 日前
松下村塾で「決心」の重要性を教わる
江戸時代後期、日本が大きな転換点を迎えようとしていた頃、一人の思想家が時代の奥底で燃えるような情熱を抱いていた。その人物こそ、吉田松陰である。
当時の日本は、約260年続いた江戸時代の安定が揺らぎ始めていた。欧米列強がアジアに進出し、日本にも開国を迫る圧力が強まる中、1853年の黒船来航は決定的な衝撃となる。
多くの人々が戸惑い、幕府が対応に苦慮するなかで、松陰はこの危機を「学びの機会」と捉えたのである。
〒758-0011 山口県萩市椿東1537
長州藩(現在の山口県)に生まれた松陰は、幼い頃から兵学や儒学に秀で、やがて強い問題意識を抱くようになる。
「なぜ日本は外の世界を知らないのか」。その問いに突き動かされ、彼はなんと黒船に密航を試みるという大胆な行動に出る。しかし計画は失敗し、幕府に捕らえられてしまう。
この事件によって一時は罪人となった松陰だが、ここから彼の真価が発揮される。故郷で私塾「松下村塾」を開き、身分に関係なく若者たちに思想と志を説いたのである。
そこで育った門下生には、後に明治維新を牽引する人物が並ぶ。例えば、「高杉晋作」や「伊藤博文」など、日本の近代化を支えた中心人物たちである。

松陰の思想
松陰の思想の核にあったのは、「行動すること」の重要性だった。「志」と「実践」の一致にあった。いくら立派な理想を掲げても、行動に移さなければ意味がない。
逆に、小さな行動であっても、それが志に根ざしていれば社会を動かす力になる――松陰はそう信じていた。知識だけでは意味がなく、国のために何をすべきかを自ら考え、実行せよと説いた人物であった。
彼の思想にはいくつかの柱があるが、特に重要なのは「尊皇攘夷」を単なる排外思想としてではなく、「主体的に国のあり方を考える姿勢」として捉えていた点である。
松陰にとって天皇は国家の精神的中心であり、そのもとで自立した国家を築くことが重要だった。同時に彼は、海外の知識や技術を学ぶことにも強い関心を持っており、黒船に密航しようとした行動からも分かるように、閉鎖的な攘夷論者ではなかった。
むしろ「学ぶべきは学び、守るべきは守る」という柔軟さを持っていたのである。しかし、
その急進的な思想は、幕府の体制にとって危険視されることになる。
やがて松陰は、幕府の大老であった「井伊直弼」による弾圧政策、いわゆる安政の大獄の中で再び捕らえられる。そして、わずか29歳という若さで処刑されるという最期を迎えた。
その生涯はあまりにも短く、直接的な政治的成果を残したわけではない。しかし、松陰の言葉と精神は弟子たちに受け継がれ、やがて明治維新という大変革へとつながっていく。
吉田松陰は、時代の先を見据えながらも、自らその完成を見ることなく散った思想家だった。だが、その情熱は確実に人を動かし、日本という国の進路を変える力となったのである。

この思想は、松下村塾で育った弟子たちに具体的な形で受け継がれていくことになる。「高杉晋作」に対して松陰が伝えたのは、「身分や既成概念に縛られるな」という強いメッセージだった。
当時の長州藩では武士階級が政治と軍事を担っていたが、松陰はそれに疑問を投げかけ、「志ある者が国を動かすべきだ」と教えた。
この影響は、高杉が後に創設した「奇兵隊」に明確に表れている。奇兵隊は武士だけでなく、農民や町人も参加できる画期的な組織であり、まさに松陰の思想が実践された例だった。
また松陰は、高杉に対して「時代を読む力」と「決断の速さ」の重要性も説いており、それが彼の大胆な行動力の源となった。

一方、伊藤博文に対しては、より現実的かつ長期的な視点が強調されていた。松陰は伊藤に「世界を知れ」と教え、視野の広さを求めた。
伊藤は後に欧米へ渡り、西洋の政治制度や憲法を学び、日本の近代国家形成に大きく貢献するが、その原点には松陰の教育がある。
特に、「国家とは何か」「統治とはどうあるべきか」という問いを若い頃から考えさせられたことが、彼の政治家としての基礎を形作った。

「決心して断行すれば、何ものもそれを妨げることはできない。大事なことを思い切って行おうとすれば、まずできるかできないかということを忘れなさい」
これは吉田松陰の名言の一つ。
また「君子は何事に臨んでも、それが道理に合っているか否かと考えて、その上で行動する。小人は何事に臨んでも、それが利益になるか否かと考えて、その上で行動する」

名言は名言でも、直球で重く、まっすぐに心に刺さる文章ではないかと思うのである。
「大事なことを任された者は、才能を頼みとするようでは駄目である。知識を頼みとするようでも駄目である。必ず志を立てて、やる気を出し努力することによって上手くいくのである」
また、名言は後から文字を追って読むより、そういった事が実際に自分自身や、大切な人の身の上に起こった際に、その時その場で読む、聴くのが一番心に突き刺さると思うのである。一番心が赤色(情熱)と紫色(不安)でごっちゃごちゃになっている新鮮な時に。

松陰の教育の特徴は、単に知識を教えるのではなく、「問いを与える」ことにあった。弟子たちは一方的に教えを受けるのではなく、自ら考え、議論し、行動することを求められた。
その結果、松下村塾からは多くの維新の指導者が生まれることになる。
わずか30年という短い生涯でありながら、吉田松陰が日本に残した影響は計り知れない。彼の思想は抽象的な理念にとどまらず、弟子たちの具体的な行動として結実し、明治維新という歴史的転換を支える原動力となったのである。

異国の侵略から日本を守るために、立ち上がった志士が、ここ吉田松陰の私塾から排出されました。身分や階級にとらわれることなく、志のあるものは入塾できたそうである。
この写真をじっと眺めていると、ここには大勢の人々が日本国の明日を真剣に考えている姿が用意に想像できるように感じるのである。
学んだこと
忘れてはならないのは、ここは山口県であり、政治の中心でも何でもなく、当時片田舎のそれも無名の田舎侍たちが真剣に話し合うことの重要性を説いている点である。
「どうせ私一人が何を言ってもこの世は変わらない」・「賢い有識者や権威性を持つものが舵取りをするものだ」と、そんな風潮が今現在われわれの置かれている時代なのだと思っていたのである。
否、彼らの時代も今の時代も同じではないであろうか。「言うは易し、行うは難し」で、松陰の言う通り、「必ず志を立てて、やる気を出し努力する」ことはいつの時代も不変の真理であると思うのである。

お墓参りもさせて頂きました。ここには、松下村塾の双璧と称された「高杉晋作」と「久坂玄瑞」両名のお墓もありました。

大勢の方がお花を添えに来ていました。人間だれしも生きている限り、岐路に立ち、選択の繰り返しを余儀なくされます。
大きな選択から小さいものまで。その後の経路はどうなるかわかりませんが、振り返った時に、ものすごく多くの分岐点があったことにも気づかされます。

自身が何を基準に選択しているのか、昔と今とでは何か基準が変わったのか。そんなことを考えさせられた一日でした。

伝統芸術にもほんの少し触れてきました。
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