人間とは何か
今回は、マーク・トウェイン著「人間とは何か」を一読し、その感想を残しておこうとする個人的な挑戦であり、また時が経過した後に読み返すことで、以前の感想とまた違った見解が得られるのかどうかといった挑戦でもある。
注意
個人的な読書感想文として構成した記事ではありますが、ネタバレする場合を考慮して、まだ本を読んでいない方はご注意ください。
マーク・トウェインについて
Wikipediaによれば、マーク・トウェインと言う名はペンネームであり、本名はサミュエル・ラングホーン・クレメンズ 1835年11月30日にアメリカ合衆国 ミズリー州フロリダにて誕生した小説家だそうである。
代表作は「トムソーヤーの冒険」や「ハックルベリー・フィンの冒険」がまず真っ先に挙げられる。幼少期に私自身も読んだことがある。
彼の父親は多額の負債を残したまま他界。当人は一時期裕福な生活を手にしていたものの、見境のない「投資」・「投機」・「浪費」によって、一度破産を経験している。晩年は債務返済に追われたようだ。
また、結婚後に男の子1人・女の子3人に恵まれるのだが、長男は1歳10か月、長女は24歳、三女は29歳でこの世を去っているらしい。妻のオリヴィアにも先立たれ、晩年は孤独な人生であったかもしれない。
そんな失意のどん底にいたであろう時期に、人生最後の作品である本書「人間とは何か」を執筆していたのかと思うと、なにか感慨深いものを感じてしまう。
ただ、彼との交流関係を持つ人は多かったようで、中でも「ヘレン・ケラー」を自宅に招き入れ、気さくに話ができるように気遣ったり、別れ際にはベランダからヘレンの姿が見えなくなるまで手を振り続けていたそうである。
人間とは畢竟機械にしかすぎぬ
※畢竟とは、「つまるところ」・「結局」の意
私はこれまでどんな本を読むときも「著者の意図を否定的に読み進めるといった悪い癖」がある。簡単に言うと「わかるよ、わかる、ただそれは理想でしょ、綺麗ごとでしょ」とか「誇張でしょ、空想でしょ、真理じゃあないよね」といった風である。
しかしながら今回の書籍には、一切そのような考えに至らず、いやある意味同調しすぎてしまったような気がしてやま止まない。また、そこに得体のしれない喜びと恐怖を同時に感じた。
本書の中身についてだが、マーク・トウェイン扮する「老人」と「青年」による対話形式で構成されており、非常に読みやすい展開となっている。何事にも否定的な読者としての私は、読み始めは当然「青年」側の主張に寄り添い、賛同する気持ちであった。
また、憎らしいのは「青年」を選んでいることである。これが「恋人」や「家族」であれば全く作者の意図が響いてこない可能性があり、また「医師」や「老婆」或いは「宗教家」や「科学者」であり、身内以外の者だとしても恐らくしっくりこないと思う。
ただし、いくら相手が変わろうと「結果」は同じであったと思われる。
老人によるこのような一節がある。「人間即機械 人間もまた非人格的な機関にすぎん」しかもこれは「独断ではない 事実だよ」と言うのである。
一般的にどれだけ人工知能やそのシステムが進化を続けようと、機械と人間は異なる存在であり、所詮機械は人間が「外からの力」を与えることによって作動するだけで、自ら「創造」などできない代物であると私は願っている。
しかし「機械は人間に到底及ばない」といった私の見解に対して、老人は逆に「人間が機械なのだから到底創造などといったことは出来ない」と言うのである。この発言に、非常に違和感を覚えるのである。
では「老人」にそう言わしめる絶対的な根拠があるのか。読者である私の心はかなり惹きつけられたのであるが、先に読み進めると「そうなのか」と思わせるき記載がちゃんとあるのである。
心の満足
「唯一無二の衝動」として、人間は自分自身の心の満足が得られる場合のみ行動に移る、いや行動するように促されるものと老人は説きます。
つまり、人間は絶えず利己主義的にのみ行動し、他人の為の行動は「常にその次」であると続けるのです。
なるほど、それはその通りかもしれない。妙に納得させられた一節ではあったものの、何か腑に落ちない感覚があり、それを青年は代弁してくれます。それが「自己犠牲」です。
よく「利他の精神」とか「奉仕の心」といった考え方を見聞してきましたが、私はそういった言葉や考え方を聞くと「自己満足」と「偽善」を常に同居させていました。
それらが「良い」・「悪い」といった考えではありません。無償で清掃作業を行えば、周囲の人たちから感謝されたり、喜んでもらうといった経験は少なからずあります。
「赤十字」や「国境なき医師団」等に募金する行為も、誰かの役に立っていればと思いながら行う行為の一つだとわかっています。
それ以外にも電車やバスで座席を譲る、手を伸ばしても高くて届かない図書館の書籍を取ってあげる、なんならお茶を入れてあげるなんかも、喜んでもらえるわけです。
しかし、それを行わなくてもよいわけです。道端で人が倒れていれば、救急車や警察に連絡を入れるのが当たり前と思いきや、見て見ぬふりをする人も大勢います。
その行為を行う一歩、いや半歩手前にある一瞬の隙間で「心が自動的に決めた」ことに対して行動するのか、しないかが決まると言っているわけです。
そしてその心は「自分が満足する一方」を選択して決まるというわけです。しかも、その心は自分自身で判断したわけではなく、その内に宿る「絶対不動の命令者」によって、自分とは切り離された「外からの力」にのみ作用して発動するのであると。
そして老人は青年の言う「自己犠牲」の在り方については、はっきりと「他人のためだけの自己犠牲なんてものはありえない」と否定するのです。
一見すると、どんな立派な行動をとる人であっても、自己犠牲の裏側に息を潜めている「自己満足」や「心の安定」を求める衝動にのみ従っているに過ぎないというわけです。
青年は反発します「つまり、すべての人間と言うのは、善人にせよ、悪人にせよ、つまるところは、良心の満足をえるために必死になっているにすぎんと、そうおっしゃるんですか?」
老人の回答を待たずして、結果は見えていましたが、「良心」とは何なのかと感じたわけです。
辞書にて調べたところ「良心」とは「物事の是非・善悪を正直に判断し、状況や利害に左右されずに善いと信じるところに従って行動しようとする気持」とあります。
つまり、悪人の場合は「悪行」自体が「善」となるため、その行為自体が「自己満足」や「心の安定」になるということになります。なるほど、合点がいきます。
ただし、悪行を働く者の心が「100%悪行が善である」であった場合です。でなければ良心の呵責にさいなまれるわけです。まあ、生きていれば100%といった判断は付けにくいことがしょちゅうです。
人間が機械なのであれば、「後ろめたいこと」や「後悔」と言った感情は生まれてこないから良いということになりますが、実際はそう簡単に割り切れるものではありません。
そもそも、「善」と「悪」の分別・判断はどのようにして心の中で行われているのかが焦点になり、先へ読み進めたくなるわけです。
人間は対人関係によって変化するカメレオン
「人間即機械」の条件として、老人は「外からの力」によってのみ動く機械と定義付けたうえで、「教育」を提唱するのです。
人間は、生まれながらにして物事の「善」や「悪」を備えているわけでなく、あくまでも「外からの力」によってのみ判断することが出来るようになるというのです。
厄介なことにこの、判断するといった行為自体も「自己の内より出るものではない」と言うのです。あくまで「外からの力」のみなわけです。「教育」がその「外からの力」となるわけです。
まあ、そりゃあそうだろうと、当たり前なことを難しく唱えているのだろうと安易に感じてしまうわけです。また「では悪行を働く者は、その心の絶対不動の命令者によって操られているだけである」のかと、とさじを投げたくなります。もう少し耳を傾けることにします。
「生まれてから死ぬまで、人間ってものは、醒めているかぎり、たえずなんらかの教育を受けているわけだよ」、「中でも第一番は、いわゆる人間関係って奴だな」
この文言も私にとっては、まあそりゃあそうさ、生まれたばかりの子供は「善」も「悪」も判断が出来ないわけだし、その後の成長過程において、親の存在・生まれた国・社会環境・宗教や政治、友人や兄弟等無数の影響を受けて成長していくわけだから。
「老人」この過程を「カメレオン」と位置付けるわけです。例えば、初めは愛する父や母からの助言を受けることで何ら抵抗なく受け入れてしまう。知らず知らずのうちに「外からの力」によって染まってゆくというわけです。
その後に「悪い教育」を受け続けて積み重なれば、どんどん「悪行」がすべてとなり、そのことに何ら違和感を持つことがなく、その者に反して「善行」を行う者の絶対数が多い場合には「悪人」と称されるわけであると。
本書中には記載はありませんが「青年」の代弁をするならば「それは全くの白紙に色を付ける場合のことであって、成長するにしたがってオリジナルの考えや思想が自ずと芽生えるのではないのか」と言いたいわけです。
では、ある人間が偶然悪い条件下に置かれたら、もはやその人間に救いわないと、堕落するしかないとおっしゃるのでしょうか、と「青年」は反発します。
「老人」こう答えます「カメレオンだってことこそ最大の幸運じゃないかな」つまり「その人間関係だが、それをさえ変えてやればいいんだよ」と。
しかし、続けてこうも説くのです「ただ、それを変えっようっていう衝動、これがまた外からくるよりほかにないんだな」
一瞬、では「何も変えられないじゃあないか」と思うわけですが、その次の瞬間に頭に浮かんだものは「本書を読んだ」と言うことがきっかけ(外からの力)で変えられるんじゃないのかとも思ったわけです。
気質はDelete出来ない
ここまで「青年」による怒涛の反論にたいして「教育」以外の「もう一つ」があると「老人」が唱えます。
おいおい、ちょっとまて、人間は「外からの力」によってのみ動く機械ではなかったのか?ここにきて「言い訳」じみたことを用意してたのか?とこのパートでは感じるところからスタートします。
「老人」のいう「もう一つ」と言うのは「気質」であると唱えます。「気質」とは人間が生まれながらにして持っている性質のことです、とおっしゃるわけです。
これだけは、いくら教育しても絶対に抹殺することが出来ないというのです。私は先に述べた「言い訳」かと思ったわけですが、よく考えると車にせよ、家電品にせよ、パソコンにせよ夫々個体差と言うものがあります。
寸分違わぬ同じ製品が存在しない以上、人間が機械であっても「気質」をその個体差であると位置づけることで納得してしまうわけです。
とはいえ、人間はそのDeleteできない「気質」を抑えつけることはできるといい、たった一度の教育ではなく、何度も何度も教育することで完成に近づくと説きます。また良きにしても悪しきにしてもそこが「教育」が出来る限界だと説きます。
人間は善行を行うよう努力することが出来る高貴な存在であると信念を曲げない「青年」はどうすればよいのか「老人」に訴えます。
「老人」は答えます。「唯一無二の衝動」である自分の中の絶対君主を満足させることだと。
心もまた自動運転を行う機械である
「老人」は「青年」にいくつかの実験を試みるように仕向けます。「心をコントロールできるか」と言うものです。
「青年」は言われた通り実験を試みますが、一度たりとも成功しないわけです。
この章では「誰もが経験している」と言ったことを、見方を変えて説明しているだけと感じてはいるものの、改めてフォーカスすると面白く感じます。
「今から勉強するぞ」とか「レポート作成しなきゃ」と一度心に命令しても、心の方はそんなことは無関係に勝手に動き出し、頭の中では流行りのメロディーを流してきたり、眠気を誘ってきたりするわけです。
そしてこれを「堕落」と称し、自分を戒めようとしても心は言うことを来てくれません。つまり心は自分と切り離された自動運転する機会なのだと。
ただ、心はコントロール出来ないけれど、望めば心の方に助けを借りることが可能であるといいます。「機知の閃めき」がそれです。
これはあくまで自ら創造したりするものではなく、心の自動作用によって生み出されたものであり、人間なんてものに創造するの能力はないのであると。
私はこの考えに幾分かの違和感を持ちました。人間は「外からの力」によってのみで動く機械であっても、度重なる「教育」によって「心」も何かしらの影響を受け続けており、「脳」に刺激を与えた結果「閃く」のではないか。つまり、「自ら」創造できたのではないかと思うわけです。
しかし「老人」はそれすら知覚されたものを結合する頭脳という機械がもたらしたものであって、決して「創造」したわけではないとおっしゃいます。
平行線
「老人」と「青年」の主張は最後まで平行線をたどります。「青年」は、人間は人を鼓舞し、励まし、高めるのものであり、栄光と誇りと英雄的行為や信用あるいは賞賛を求めるものだと主張し、「老人」に対してあなたの主張はそれをすべて「奪い」・「否定」するものだと警鐘を鳴らします。
それに対し「老人」は、真っ向から「人間の相場を下落させているのは君たちだ」と反論します。この世にあるすべての物は「神」によって与えられたものであり、人間はそれを借りて生きているだけである。にもかかわらず、人間は勝手にそれをより分け「価値」があるものと定義付けを加えて一喜一憂しているだけだと。
まとめ
本書を最後まで読んでの感想ではあるが、「外からの力」という表現を例えば「経験」や「入力」、あるいは「上書き」といった言い換えが出来るのではないかと思うのである。
そこで再度自身の中で、言葉を読み替えて目を通してみたのではあるが、隠された「対の言葉」が見つからないのである。重要なのはもちろん「外からの」である。
マーク・トウェインは、本書の「老人」と「青年」との会話を通じて、いったい読者に対して何を伝えたかったのか、ただ晩年を迎えた孤独な老人の戯言ではないことは確かである。
恐らくマーク・トウェインは、人間一人一人が謙虚な気持ちで物事に向き合うために「人間は機械である」と唱えたのではないか。
所詮人間は機械なのであるから、恵まれている人は、その環境のせいで偶然恵まれているだけであり、恵まれていない人はその環境のせいで偶然恵まれていないだけのことである、つまりあなた自身が創造した功績や責任ではないと伝えたかったのではないかと思われる。
•「人間とは」所詮、神が創造した「機械」であり、「唯一無二の衝動」でのみ行動する •「人間とは」所詮、外からの力「教育」と「気質」によってのみ支配された存在である |
個人的な見解による「読書感想文」でしたが、少しでも興味が沸いた方がいらっしゃればとても嬉しく思います。
心を揺さぶられたオススメの一冊
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