読書感想文「幸福論」について
- 3 日前
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更新日:8 時間前
今回は、アラン著「幸福論」を一読し、その感想を残しておこうとする個人的な挑戦であり、また時が経過した後に読み返すことで、以前の感想とまた違った見解が得られるのかどうかといった挑戦でもある。
注意
個人的な読書感想文として構成した記事ではありますが、ネタバレする場合を考慮して、まだ本書を読んでいない方はご注意ください。
アランについて

著者についてWikipediaによれば、本名をÉmile-Auguste Chartier(エミールーオーギュスト・シャルティエ) 1868年3月3日にフランス帝国ノルマンディ地方にあるモルターニュ・オ・ペルシュにて誕生した哲学者、評論家、モラリストである。ペンネームはAlain(アラン)
フランス革命時に創設された三校の一つであるエコール・ノルマル・シュペリウールに入学。高等師範学校として高等教育機関の教員や研究者の養成を目標とし、一学年は300人程度の少数精鋭校で勉学に励み、ノルマリエンヌとなる。
フランスでは、高等師範学校と師範学校の学生及び卒業生をノルマリエンヌと称すそうである。
卒業後の1892年から1933年の四十年間、高等中学校の哲学教師として務めている。またその傍ら5000もの「プロポ」を毎日執筆するのである。
プロポとは短いエッセイ形式のコラムのようなものであり、紙葉1枚2ページに渡って書かれた断章で、2時間で一気に書き上げたとされており、修正することはなかったそうである。
書きたい日も書きたくない日も毎日書き続けていると、そこには一つの自然なリズムが生まれたそうである。5000のプロポを毎日書くということは13~14年は掛かる計算である。
第一次世界大戦がはじまると46歳で戦争の愚劣さを体験するために、自ら願い出て志願兵となり、好んで危険な前線に従事したとされている。
代表作は1937年に執筆刊行された「大戦の思い出」や「マルス、または裁かれた戦争」が挙げられ、その内容は愛国者の怒りを買ったそうである。他にも「芸術論」や「思想と年齢」などが挙げられる。
さて、戦争を経験し、体系化を嫌い、具体的な物を目の前にして語ろうとした彼は著作「幸福論」を通して、何を伝えたかったのかについて考察し、読書感想文を書こうと思う。
情念

アラン曰く「ほんとうを言うと、幸福も細切れに分けられているものなのだ。気分の善し悪しはすべて、一時的なからだの出来事によるのもだが、それをわれわれは異様に拡大して、そのことに信託のような意味を与えてしまう。そのような気分が最後に行き着くところが不幸である」と説くのである。
これは書き出しの初めに、アランが「モール・ランブラン夫人への献辞」として伝えたとされる一節であり、プロポに登場する人物であり、語り相手として設定されたと思われるのである。
この一説が意味する内容を、幸福に関する93のプロポが収められた著書「幸福論」から読み解いていきたいと思うのである。
アラン曰く「もの知りぶる者は危険と感じるから恐怖が生まれるのだという。情念に囚われた者は恐怖を感じるから危険だと判断するのである」と説くのである。
情念とは人の心の働きや思いであって、強く囚われて離れない愛憎の感情を指すという。具体的には「驚き」・「愛」・「憎しみ」・「欲望」・「喜び」・「悲しみ」・「執着」が挙げられる。また、二次的三次的に「恐怖」や「嫌悪」あるいは「怒り」や「期待」になるという。
アランはこの両者のどちらも間違っているというのである。結論から考察すると「危険」は客観的に存在するものであって、また「恐怖」は客観的には存在せず、心が囚われた状態を指すのだと思うのである。
一方は未だ起きてもいない、いや、起きもしないことを、限られた知識や経験から、一方は意識・無意識に関係なく、自身の内側から勝手に創り出しているだけだと説いていると思うのである。
また「『いらだつ』というこの言葉は、人に何かを考えさせる。いらだちはまた、その叡知において、情念の中でもっとも激しいものを指しているともいえる」とも説くのである。

アラン曰く「自分の考えが情念の言うなりになっていること、そしてどうにも手のつけられないような熱狂さで恐怖のなか、怒りのなかにとび込むこと」は間違いだと説くのである。
「いらだつ」は病気であると断言しているのである。つまり、病気であるのであれば治療することができる可能性があるとうことだと思うのである。
アラン曰く「それは正しい理性によってからだの動きを支配することである。激怒の発作に駆られてからだの自然なリアクションの邪魔をしないこと」ただそれだけで治まるというのである。
つまり、感情や欲望に流されず、道理に沿って物事を考え、善悪や真偽を正しく判断することができれば解決すると説いているのである。
しかし、「想像力の喚起する病については、治しようがない」とも説いているのである。なぜなら「不幸な人間は、すばらしい出来事でさえもむなしいことだと一笑に付してしまう」からだと説いているのである。
しあわせと不幸
では、「しあわせ」だとか「不幸」だというものは、どういったプロセスを経て感じるものなのだろうかと思うのである。
アラン曰く「本当のところ、しあわせだとか、不幸だとかいう理由には価値がないのだ。からだと、からだの働きですべてが決まってくる」と説くのである。
また「人の体は日々躁状態と鬱状態を繰り返している。ただ賢人の場合、その魂のなかで、幸福な思惟(心で深く考えること)が厖大な拡がりをもっているので、情念はみんなまったく片隅に追いやられて小さくなっている」と説くのである。

つまり、誰もが毎日からだのリズムによって幸・不幸を感じるようになっているものの、幸福になることだけを考え、幸福でありたいという純粋で混じり気のない思いで満たされていれば不幸を寄せ付けないのだと理解したのである。不幸を切望する人は稀である。
これらのことはこれまで生きてきた中で漠然とではあるが体感しているのである。目の前の仕事に追われていたり、何かに集中しているときに「幸・不幸」を感じることはないのである。感じるときは「暇」になったときであると思うのである。
そこでアランは警告するのである。「われわれは価値のあるものをよしとしているにもかかわらず、それの探求を絶対法則として課していないのは間違いであろう」と。
アラン曰く「自分がほんとうに得たいと思うものを欲すること、これは往々にして、人生の極意でもある」と説くのである。
たとえいくら価値がないと唱えようとも、人は幸福には価値があるとして信じて疑わないのである。であれば、なぜその考えと行動が不一致になっているのか。と言っていると思うのである。
具体的に考えた場合、お金があれば幸福であり、無ければ不幸だと思っているなら、お金を稼ぐために具体的な行動をとり続けているのか。例えば転職・独立あるいは手当をもらうために資格取得・副業・昇給するための努力・昇進するためのちょっとした努力等である。
これらを行えばお金は以前より確実に増える。しかし実際は何もやらない人がいるのはなぜなのか。と説くのである。お金は欲しいが努力や挑戦はしたくないというのであれば、本当にお金ががあれば幸せだと、実は思ってはいないのではないかと説いていると思うのである。
想像力
アラン曰く「われわれのなかには他人の苦痛に耐えるだけの力があるとは必ずしもいえないことがわかる」なぜなら「そこにはわれわれの意見に左右されぬ種類の憐憫があるからだ」と説くのである。
つまり、苦痛を伴うある事象を目撃した際、その一瞬頭の中で、自分自身と同化させてしまう。そのあと即座に想像力による恐怖感が生じるのである。頭ではなく体が必然的に「あわれみ」といった感情を抱くのは深く考える前の一瞬だと伝えていると思うのである。
アラン曰く「こうした想像力のなせるわざは、思惟の力ではどうしようもない。想像力はここでは思考力を伴わないからだ」「想像力の最初のはたらきは、いつもからだのなかにあらわれる」と説くのである。
ふとした一時、内なる自分と対話することがある。決して差し迫った状況ではなく、想像するに十分な時間があり、目の前に現存する物質や事象があるわけではない。単に想像し、明に想像すれば明に、暗に想像すれば暗になるだけの対話である。
つまり、想像力には「一瞬の想像力」と「思惟による想像力」の二つが存在し、前者はどうにもコントロールはできないが、後者は行動することで吹っ切れるのだと説いているのではないかと思うのである。
また、想像する対象の中には性(タチ)がわいものがあるという。アラン曰く「奴は恐怖の量を塩梅するのだから。われわれがグルメのように恐怖を味わうようにさせるのだ」と説くのである。

確かに負の感情を持った状態で想像した場合、そのスパイラルから抜け出せず心は疲弊の一途をたどる。起こってもいないことであっても「起こったら」と勝手に想像力が膨らんでしまうことはよくあることである。
また、アラン曰く「悲運の重圧をうけとめることができるのは幸福な人だけである つまり、すべてを言ってしまえば、人間は自分の苦悩よりも他人の苦悩に対して敏感になっている」と説くのである。
さらに「よく注意しないと、そこから人生についてまちがった判断をくだして一生を台なしにしかねない」と注意喚起するのである。
つまり、不幸を想像する人の現在の立ち位置は不幸ではなく、苦悩を想像する人の現状は苦悩していないということだと思うのである。
そこのところを見誤ってしまうと、不幸ではないはずの人が本当に不幸になってしまい、苦悩するべきでない人は毎日苦悩と隣り合わせで生きていくことになるということでなないだろうか。
ではどうすれば、想像力の支配から逃れることができるのか。想像は想像しようとして行っていない場合が多い。気が付けば勝手に想像しているものである。
アラン曰く「自分の周りの人々や物事のせいにしないで、まずは自分自身に注意を向けるのが賢い道である」そのうえで「礼儀作法はしばしば、われわれをすっかり変えてしまう」と説くのである。
また「ほほ笑みはあくびと同じように、からだの奥まで行きわたり、のど、肺、心臓と次々にときほぐす。ここでは想像力によってわれわれは苦痛をまぬがれ、ほっとする」と説くのである。

なるほど、微笑むことからいんぎん(丁寧で礼儀正しい様)な挨拶につながるということは実体験でもよくわかるのである。しかめっ面をした状態でいんぎんな挨拶ができるとは思えないのである。
つまり、想像力によって精神が支配され、苦悩し、混乱するほんどの原因は勝手に自らを考え過ぎ、思い込みが過ぎることに尽きるのだからそこを意識しなさいと言うことではないだろうか。
アラン曰く「われわれが苦悩と考えるのは、それを予感し、待ち受け、現在の前後に若干の時間が伸びているものだ。現在だけの苦しみなんて無にひとしい。われわれは痛みを苦しむことよりも痛みを恐れる気持ちの方が強い」と説くのである。
実際、そうと分かって意識づけを行っていても想像力を抑え込むことはできないのであって、いついかなる時も恐怖を作り出すのはこの想像力に他ならないのである。
アラン曰く「最大の苦痛とはものごとを正しく考えることができないことではないかと思った。そう思ったからと言って想像しないですむというわけにはいかないのだ。ただ、苦痛がありのままに想像されることなどありえないのだ。これを知っただけでもすでに大したものである」と説くのである。
退屈が創り出すもの
人間は五感から得た情報(明確・不明確を問わず)によって、ほぼ自動的に想像力を発揮してしまうと思うのであるが、その想像がマイナス方向、つまりネガティブ思考に傾く理由とその対処の仕方についてアランは以下のように説いている。
アラン曰く「まったく規則をも持たないで、やがて節度を超えてしまうこのつかの間の心の動揺、これこそまったく裸の情念である」と説くのである。
たとえそうであっても、積極的に(前向きにと言うべきか)考える(られる)人は「さいわいにも明確な課題や取るべき決断やためらいを許さない時間的限界があたえられる」と説くのである。
しかし、時間を持て余している人は「想像」や「妄想」をいつまでも行い結論が出ない。そのため不安や恐怖を勝手に自ら創り上げてしまう。逆に何かしら仕事をしている人は「想像」や「妄想」をする時間が限られて中断や停止ができるのだということなのだろう。
例として、自分が病気ではないだろうかと強く想像してしまい、激しく動揺しその恐怖から抜け出せなくなってしまった人に、たとえ医者が「あなたは病気ではない」と伝えたとしても、暇があるため「医者が見落としているのではないか」と疑心暗鬼になってしまう。
ところが「あなたは病気です」と伝えた場合、先程までの激しい動揺は収まり、たちまち癒されてしまうというのである。明確な結論を得たことで安堵したということなのであろうが、こうなると本末転倒である。

アラン曰く「恐怖のなかには意味のない動揺のほかには何も存在しないとぼくは思う。そして考えこめばかならず恐怖がつのってくるものだと思う」と説くのである。
退屈が引き起こすこのような想像を振り払うのはやはり、仕事をしたり体を動かしたり、人と接して丁寧で礼儀正しい挨拶に気を配った方がよっぽど良いということなのではないだろうか。考えるだけで何もしなければ、どんなことでも必ず怖くなるものである。
幸運に身を委ねるのは不運に身を委ねるよりも難しい
アランはこう説くのである「幸運に身を委ねるのは不運に身を委ねるよりも難しい」と。これは何を示しているのか。
幸運は、しばしば「この良い状態を維持しないといけない」「最大限に活用しなければならない」というプレッシャーや重圧を生み出しやすくなり、また、幸運が続くと、これは自分の能力や努力によって「幸運を引き寄せているのだ(コントロールしている)」と錯覚してしまうのである。
さらに、あまりにも良いことが続くと、「いつか痛い目を見るのではないか」「これは長続きしないのではないか」といった警戒心や自己懐疑の念が生じてしまうのである。
今幸運に包まれているのであれば、それは当たり前としてではないと思い、恵みとして受け止め、感謝と謙虚さを持つ姿勢こそが身を委ねている状態であると思うのである。
つまり、幸運に身を委ねることが難しいのは、積極的な感謝、謙虚さ、そしてコントロール、幻想を手放す勇気が必要となり、精神的に難しい課題であると言えるのである。

「運否天賦」という四字熟語がある。これは「すべて人の吉凶禍福は、天がそうさせるのだとすること 運を全く天に任せること」という意味ではあるが、前提に「人事を尽くして天命を待つ」つまり自分ができるだけの全ての努力を尽くしていることが必須にあるのである。
言い換えれば、今ある幸運は自分が血の滲むような努力を積み重ねた結果にもとずくものだと思い込んでしまうからではないだろうか。そしてそれを感謝しろとか、謙虚でいなさいとか、自分で引き寄せたものではないと思えと言われてもなかなか受け入れ難いのである。
なぜならそれらはその先の一段上のステージにあるのだと思うのである。協力してくれた人々や環境があって努力できたことへの感謝や謙虚さ。社会全体にコントロールしてもらえた事実に気づけるかということだと思うのである。
幸福でいるときは不幸を考える時間を取り、不幸であるときは幸福を考える時間をとって、ただ頭の中であーでもないこーでもないと考えるだけのことが、いかに無駄で意味のないことなのかと思うのである。
期待を抱くこと 意志を持つこと
アラン曰く「裕福になろうと欲してなれなかった人間が一人としているだろうか」と。つまりそんな人間はこの世にいないと説くのである。
ドイツの詩人・劇作家にゲーテ(Goethe)という男がおり、彼は生涯にわたって欲するものはすべて手に入れていたというのである。彼の回想録冒頭にはこう記されている。

「青春が追いもとめるものを、老年は豊かに得ている」
つまり、ゲーテは若き日に自身が欲した物や事があれば、本気になってそれを求め続け、愚直に行動に移し、不屈の精神で勝ち取り続けた結果、老年期により成熟した形となって豊かさを享受できたことを伝えているのである。
とはいうものの、誰でもがゲーテのようにはいかないものである。ゲーテのようになりたいと願う者のほかに、そうはなりたくはないという考えを持つ者もいるのである。
「人間は馬の完全性を必要としない」
こう説くのは、オランダの哲学者バールーフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza)やドイツの哲学者フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche)である。
彼らは、人間は馬のように、ただ本能のままに生き、自然の一部として歪みや苦悩なく存在している状態になる必要はない。人間は不完全性や苦悩を受け入れて、自らの価値をそこから創造する生き物だと説くのである。
人は豊かになる為の十分な手だて(能力や手段)を持っている。ただ、その手だてを利用することなく誰かが気づいてくれると期待を抱きながら、じっと待ち続け不安と共存するか、先の見えない不安と闘いながら意志をもって行動に移すかということである。
どちらも間違いではないと思うのである。受動的であったとしても求めるものが向こうからやってくる場合だってないとは言えない。能動的に行動しても必ずしも成就するとは限らないのである。そこにあるのはただの確率論ではないかと思うのである。
ただ、両方を選択することはできないのである。このどちらの生き方を選択するかは内なる自分自身が決定することであり、まさしくこの一点が運命の分かれ道だと言えると思うのである。

臆見
臆見とは「確たる根拠のない、推測や想像に基づく考え」のことである。この言葉は「プロポ:絶望しないこと」の中で紹介されている。
アラン曰く「不幸なことに、絶望には確信がつきまとう。いや、確信どころか、やわらかな思考を拒絶する絶対的断定が」そしてこれこそ「幻想(イリュージョン)だと思う」と説くのである。
確信とは信じて疑わないことであり、幻想とはとらえどころがなく、あやふやで、真実味のないといったニュアンスを内包しているが、なぜ絶望を幻想と位置付けているのだろうか。
幼い子が「何で」と問いかけてくることを想像したのである。この「何で」という問いかけは永遠に続くと思われるのであるが、おそらく最後には「そうなっているから」とか「そういうものだ」と断定して完結させた記憶があり、させられた記憶があるのである。

本当を言えば調べて答えてあげられることは多いのではないだろうか。しかしそうはしない。なぜか、面倒だからか、意味がないと思っているからか、それもあるだろう。ただ既に自分の中での答えに納得しているからだと思うのである。
「何で人は死ぬの」と問われた場合、頭の中では「寿命というものがあって、これまで誰一人例外なく死いでいるからだ」という絶対普遍の原理原則をもって回答するであろう。それでも幼い子は「何で」を問うてくるのである。
では「何で絶望するの」だった場合はどうであろうかと考えるのである。絶望に確信がつきまとうのは、ただ既に自分の中での答えに納得しているだけであって、幼い子の次の「何で」を聞いていない状況だからではないだろうかと思うのである。
また、幼い子には習慣というものがあまりないのである。しかし年を重ねてゆく中で少しづつ勝手に習慣化されるものが増えてくる。アラン曰く「習慣は偶像(イドラ)のようなものでイドラが力をも持つのは、われわれがそれに服従しているからだ」と説くのである。
イドラ(Idola)とは、16-17世紀の哲学者フランシス・ベーコンが提唱した人間の正しい判断や認識を妨げる「先入観」「偏見」「誤った思い込み」のことである。
さらにアラン曰く「考えることのできないことは、また行うこともできないように見えるから。人間の世界が想像力によって牛耳られているのは、想像力はわれわれの習慣から自由になれないからだ」と説くのである。
巷ではよく「常識を否定しろ」といったようなフレーズを耳にすることがあるが、これらの類の意図する一つには「当たり前を当たり前と受けとるな」ということだと思うのである。いったい誰が当たり前にしたのか。自分自身である。
習慣化された行動にはこの当たり前が常に付きまとい、疑問や疑念は全くと言っていいほど介在してこないのである。思考停止はこの習慣により始まるのである。
そこでアラン曰く「想像力は創り出すものではなく、創り出すのは行動である」と断言するのである。
人間のほとんどは自ら作り出す勝手な常識、勝手な当たり前の前に無力になりがちではあるが、絶望する前に「本当は臆見ではないか」と疑問や疑念をもって立ち向かう行動こそが大切なのだと教えてくれていると思うのである。
行き過ぎた信頼関係
「ダブルバインド(二重拘束)」という概念がある。これは矛盾する二つの提案をほぼ同時に受け取る場合、そのどちらを選択しても正解ではなく、受け手の心に心理的ストレスと混乱を生じさせてしまう現象のことである。
子供に対して「どれでも好きなおやつ食べていいよ」と言っておきながら「そのおやつはダメ」と言って見せたり、部下に対して「何でも相談してね」と言っておきながら「自分で考えろ」と言って見せたりするあれである。
ダブルバインドが長期的に続くと、何度も矛盾した要求に直面することとなり、行動そのものすべてに困惑し、自己否定感を助長することとなるのでる。また精神的な健康問題をひき起こし、信頼関係にも悪影響を及ぼしかねないのでる。

厄介のことにこのダブルバインドの送り手は、故意あるいは策略をもって受け手に伝えているわけでないというケースが大半であるということである。無意識なる拘束なのである。
これらの事象が生じやすいのは「親と子」・「上司と部下」といった力関係が明白なものに偏って出現する傾向にあるそうである。答えは明白である。受け手は送り手への依存性が高く、「指示待ち」状態に置かれているからである。
逆に言えば、関係性が皆無なもの同士のなかでは発生しにくいのである。アラン曰く「礼儀作法は親密なかかわりをもたない人たちのためにあり、機嫌は、上機嫌も不機嫌も、親密な者のためにある」と説くのである。
つまり送り手である親や上司は、時として相手に対し礼儀を欠いている場合があり、さほど親密でもない間柄であっても関係を持っていると思い込んでいる場合があるということである。
受け手自身がダブルバインドに陥っていると認識できた場合であれば、状況を客観視して送り手に矛盾を指摘するのが最良の手段である。受動的なため比較的対処もしやすいと思うのである。
しかし、受け手が送り手に対して止めどなく信頼を寄せ、その親密性が高くなっている場合どうなるのであろうか。
アラン曰く「親密さ(情念)が深まれば深まるほどますます避けることができない。それのわからない人はどうしても不幸となる」と説くのである。
ではダブルバインドの送り手とならないためには、どのようにすればその行為に制御を加えることができるのだろうか。
アラン曰く「最初の動作がどんなに危険なものかを知っている人間は、自分のしぐさに規律をあたえ、こうして自分の愛着する感情を保つ」と説くのである。
つまり、あらゆる活動において、受け手側に対して最初にとる行動(発言やしぐさ)が最も不確実性が高く、思い込みや錯覚あるいはヒューマンエラーや事故が発生しやすい非常に危険な局面であると、認識する必要性があるということだと思うのである。
愛しているより礼儀作法の方が真実な意味がある
アラン曰く「人はその生が豊になればなるほど、それを失うことを恐れなくなっていく」と説くのである。
この意図するところとして、人生が充実しおり、満足感や自己肯定感で満たされた場合、失うことへの恐怖が薄らぐという考え方のことを指していると思うかもしれないが、薄らぐというよりはもっと別の意味があると思うのである。
端的に言えば、豊さを形成する過程の中において、当の本人はそれ以外を考える暇を持ち合わせない状況や環境を整えていくということである。起こるかどうかもわからないことを、頭の中でゴチャゴチャ考える隙を与えないということである。
アランは同様に、戦争(喧嘩も同様と思う)においても暇人が退屈を癒す手段として持ち込むものであり、戦中に死ぬかもしれないと恐怖することも暇人なのだと断言するのである。
つまり、交戦中の戦士は死ぬかもしれない恐怖と向き合っている暇がなく、また一瞬脳裏に浮かんでこようとも、無我夢中の境地においてはすぐにかき消されるものであるから、死を考えることがもっとも少なくなる状況だと説くのである。

お金持ちはこの意味を心得ているという。アラン曰く「彼らは無数の義務や無数の仕事を自らに課して、まるで火事場に行くように奔走している」と説くのである。
また彼らは「新しい行動を、新しい知覚を求めているのだ。彼らが生きたいと思っているのは世界の中であって、自分自身のうちではないのだ」と。
では一個体ではなく、家族という集団の中でも同様のことが当てはまるのであろうか。たとえどんなに無我夢中で外の世界(仕事場等)に一日身を置いていても、一旦家路に帰すれば暇ができてしまうのではないだろうか。
家に帰れば何かに掻き立てられたり、急き立てられたりしない。また、習慣が後押しするのか、家に帰ってからは幸せであるために何かを課して行動しようとは誰もしないのである。そして皆、感情(情念)の上に横たわってしまうのである。
こうなると家族内で各々が「情念」に取りつかれる隙を作ってしまい、さもすれば信頼関係をも壊しかねない直接的攻撃的言動に出たり、不機嫌になったりしかねないのではないだろうか。
アラン曰く「ヘーゲルは直接の、あるいは自然の魂はいつも深い憂鬱にみたされていて、重さにひしがれていると言った。自己省察がもしそれだけに終わって自らを奮い起こす力がないならば、それはよくない戯れである」と説くのである。
良きことをいつまでも考え続けるより、悪しきことを考え続けることの方が簡単でいつまでも続けられると思うのである。つまり自分が自分にだけ問いかけを行い、考え込むほが圧倒的に多くなると思うのである。
そのことをよく踏まえたうえでアラン曰く「まず心に浮かんでくることはみな偽りである。目ざめとともに目を開けるが、ぼくの見ているものはすべて虚偽なのだ。最初にみたものはどんなものであれ、一瞬の夢である」と説くのである。まずは一呼吸置いて一旦そう思えと伝えているのだと思うのである。

アラン曰く「外の生活では各自みんな自己制御ができていて、一瞬一瞬自分を取り戻しているが、私生活においては同じように成功しない」と断言するのである。
よって家族のなかにおいては、自分の感情を露わにするような気まぐれな情念を抑え込むためにはどうしても礼儀正しさが必要であると説くのである。
アラン曰く「礼儀とは虚偽である ただ(自分の)心が誠実かつ貴重であれば(ありたい)あるほど(ありたいほど)、ますます礼儀正しさが必要となる」と説き、「意志的に感情を変えるべき、感情に気づかぬふりをするべき」だと説くのである。
たしかに礼儀作法を重んじるということは、相手に対して行う行為であり、丁寧なあいさつや立ち居振る舞いなど敬意を払う一連の流れの中では感情(情念)は鳴りを潜めると思うのである。そして敬意を受けた側も決して悪い気はしないものである。
結論としてアランは、家族として皆が皆を「愛しているかぎり、気分よりも礼儀作法の方がより真実な意味がある」と説くのである。そう、親に、妻に、夫に、子に、あえてでもいい、本当はそんな気がなくてもいいから、声でや態度で「こんにちは」と「お辞儀」をしてみるとよくわかると思うのである。
幸福になる仕方を学ばなければならない
アラン曰く「幸福はいつもわれわれの手から逃げていくといわれている。人からもらう幸福については、それは正しい。人からもらう幸福などは、まったく存在しないからだ」と説くのである。
逆説的に考えるならば、自らの手で勝ち取った幸福は逃げてゆかないということである。ただ、個人的には人からもらう幸福もあると思うのである。ごく自然に体感として感じる「感謝」がそうであると思うのでる。
もちろん、これらの多くは端から手中にあるとは思ってはいない。よって逃げたとも感じないのであるが、アランが伝えたいことはもっとほかのことだと思うのである。
アラン曰く「幸福というのはおそらくいつも、ある種の不安、ある種の情念、すなわちわれわれを自分自身に対して目覚めさせるような苦痛の切っ先を前提にしている」と説くのであ
る。まず「幸福」というものは、単体で存在しているものではないということだと思うのである。

何かと対をなしてのみ存在しうるものであるのだが、それが単に対極にある「不幸」とは述べていないのである。
おそらく「不幸」という言葉では片づけられない、もっと慎重に扱わなければならない、もっと奥深く、いや深淵を見つめなければならないものであると思うのである。
仮に、一生涯食うに困らないような富を得たとすると、人はその瞬間からもう何も求めることをやめてしまい、同時に空虚感を纏い精気をなくし退屈だけが残ると思うのである。
おそらくその通りだと思うのであるが、そんなことはまずもって身の上に起こることはないのであり、大半は「食べていくため」・「家族を養っていくため」等に必死で労働していると思っている人の方が多いと思うのである。
また、人によっては精神的な矛盾を生み出すリスクを取り続けたり、逆に一つも取らなかったりするのではなく「中庸」の中にあり、更に先の「中庸」をもとめているのではないかと思うのである。
もちろんアランはそれがだめだとは言っていない。むしろ当たり前なことすぎてそのことには触れてもいないのである。
アラン曰く「われわれの好む富というのは、更にその次の計画や仕事を求める富である。なぜならわれわれの気に入るのは見えない力であるから。行動している力だから」と説くのである。
この内容は物事に対して意欲的に取り組む姿勢がある人にとっては良く理解できる、もしくは当たり前なこととして映り捉えることができるとは思う。ただ、全員が全員ではないのではないのではないだろうか。
そう、物事に対して否定的な態度を示す人もいるのである。もちろん何でもかんでも否定しているわけではないと思うのだが、「ダメだ」や「無理だ」というからには、それなりの裏付けや道理が存在しているはずである。
アランは大前提として、ゲームが楽しいかどうかはゲームのやり方を知っていなければわからない。つまり幸福になるためには幸福になる仕方を学ばなければならないと説いているのである。つまり幸福に興味がなければ学ばなくてよいと説いているのである。

学んでゆく過程の中においてはある種の不安、ある種の情念、すなわちわれわれを自分自身に対して目覚めさせるような苦痛が伴うこともある。経験のなことへ挑戦する不安やそこから生まれる想像力(イマージュ)は自分を闇の中に、あるいは逃げ出したくなったりするのである。
しかし、それだけではない。同じ想像力(イマージュ)をもって「上手に乗り越えることができたら」と考えることもできるのである。そしてその葛藤の中から「楽しみ」を引き出すことができればよいのであると伝えていると思うのである。
幸福になる仕方としてアラン曰く「自分でやること、人にやってもらうのではない。そこにはよろこびのいちばん深い意味がある」そして「どうしても自分でつくり出す必要がある」と説くのである。
さらに幸福になる仕方として「苦労こそ良いものだ。しかし、精神はこの矛盾を担うことをよしとはしない。精神はこの矛盾を乗り越えなければならない。精神は思惟によってこの苦労を楽しみとしなければならない」と説くのである。
不幸を望めば何らの苦労なく手の中に収めることは可能である。反対に難しいのは幸福になることである。難しいなら諦めるのかと言えばそうでもない。ひとはそのための努力を日々行っているはずだと思うのである。ようはそのことに気づいているか、ではないだろうか。難しさは人それぞれの中にあるのである。
一日中ずっと何の期待もなく働いていれば必然的に怠惰となり、憂鬱となるであろう。やり慣れた、目をつぶっていてもできる仕事には当然身が入らないのである。おそらくひとは多少困難な仕事でも、あるいは間違ってしまう可能性があっても、好んでそちらを選ぶと思うのである。
ここでいう「仕事」についてであるが、仕事とは力が働いて物体や物事あるいは人や金を動かしたとき、その力と動かした距離との積のことであり、何もスーツや作業着を着て職場や事務所で働くといった状況を指しているのではない。
国内の自動車メーカーであるTOYOTA自動車では、仕事とは「工程が進むこと」と定義付けている。つまり、会社では会社内の、家庭では家庭内の、自治会では自治会内での掲げた目標に対して近づくための行動を指していると思うのである。
しかしながら、工程が進む過程において、楽しみは一足飛びにやってはこないのである。成果は一つ一つの積み上げがあってこそであり、膨大な時間が流れることもある。その間、当初予定していた未来予想図が変わってしまうこともありうるからだと思うのである。
つまり、仕事を始めるにあたっては何一つ期待を持つことなく始めなければならないわけである。そこには「不安」や「ある種の情念」が付きまとってくるのである。それに打ち勝つことで初めて「期待」がやってくるのであると説いていると思うのである。

アラン曰く「人間の感じるもっとも大きな楽しみは、おそらく、むずかしい自由な仕事を、みんなで力を合わせてやるところにある」と説くのである。
そして「人はもっともつらい仕事をしている時、疲れを感じないもので、心も軽やかとなる。そうして全きくつろぎが訪れ、最後にはよい眠りを楽しむのである」と。
「自分で決められることは幸せである」という言葉がある。人生の選択権を自分が持っているという自己決定感が、高い幸福感や心身の健康に繋がるという考え方である。
主体的に選択・行動することで、たとえ結果が思わしくなくとも、自らを律したことによる満足感を得られることが幸せの基礎をなしているのである。
幸福は、結果よりも「最善を尽くした」と自ら納得できる満足感に寄与するものだと思うのである。
親友と親友
「ある状況について判断をくだし、むずかしい問題を提出し、その解決法をさがすが見つからず、いつまでも同じ考えのなかで堂々巡りをしている」その状況のことを人々は「苦しいのはそれだけだ、思考のはたらきは自分の身をさいなむ棘であるというだろう」というであろう。
アランはこれに真っ向否定するのである。アラン曰く「まさに、こういう間違った考えに陥らないことから始めなければならない。どうしたらいいか何もわからないような問題などいくらでもある」と断言するのである。
例えば恋をしたとする。相手に自分の気持ちを伝えると「判断をくだす」ものの、頭の中では勝手にあれこれ考えてしまう経験がある。
「相手は自分のことをどう思ってくれているのだろう」とか「相手には既に意中の人がいるかもしれない」と勝手に問題を作り出すのである。そして「これが恋なのだ」と自分で自分を苦しめ続ける行為を指しているのだと思うのである。
このような場合、他人に心の内を打ち明け相談することが恥ずかしい、難しい、あるいはするべきではないと一人で考えてしまうことも多々あるのである。
しかしながら、第三者の立場にいる誰かにもし相談できたなら、共感や同意を得られたり、提案などを得られる可能性も少なくはないのである。
仕事上においても同じことが言えると思うのである。あるプロジェクトを進める際に、プランAとプランBをクライアントに提出しようと「判断をくだす」ものの、頭の中では勝手にあれこれ考えてしまう経験がある。
「プランCあるいはプランDまで選択肢を与えるべきか」とか「競合他社から全く考えもつかない提案がなされてはいないか」と勝手に問題を作り出すのである。そして「これが商談なのだ」と自分で自分を苦しめ続ける行為を指しているのだと思うのである。
ではなぜ、人はこのような堂々巡りに苛まれるのであろうか。アラン曰く「混迷した思惟のなかでわれわれが悩むのは、そういう思惟に対する一種の戦い・抵抗があり、情念のはたらきの中には必ず、取り返しのつかなさに対する抵抗のようなものがある」と説くのである。

「フラれたらどうしよう」とか「商談解除になったら」取り返しがつかないのだという、不安と恐怖に対する抵抗心がそうさせているのだと示していると思うのである。
アラン曰く「情念は期待をもとうとし、ある意味で思惟に対して、もう一度同じ道をたどり直して、どこか違う場所に通じる分岐点を見つけるように命じている」と説くのである。
つまり、このような情念が自身の心を支配していると気づき、その行為は極めて無益で有害であると気づくことこそが有益であると示していると思うのである。
アラン曰く「要するに相互に関連した諸力、完全に説明できる力だけを考えることのできる人は、どんな恐怖からも解放され、おそらくどんな不幸からもまぬがれるであろう。恐怖心は、不幸以上におそろしいものでる」と説くのである。
「フラれたらどうしよう」とか「商談解除になったら」という、考えても仕方のないことに振り回されるのではなく、そうなったらそうなったで次にどう出るかを明確に考えることが大切であると示していると思うのである。
アラン曰く「もし君に友人がいたら、そして友人が、何事につけてもつらそうに不満を言っていたら、君はおそらく、彼をなだめようとし、世界をもう一つの見方でとらえる方法を教えようとするだろう。では、どうして君は、自分自身に対してもかけがえのない友となってやらないのか」と説くのである。

やるべきことを実行する
アラン曰く「蓄音機が突然君に罵詈雑言を浴びせたとしたら、君は笑い出すであろう。そういう罵詈雑言を自分に向けられたものであるとは、誰もおもわないであろう。しかし、罵詈雑言を浴びせるのが人間の顔である時には、それはみな以前から考えていたことであると、少なくともその時にはそう考えていたと、だれでも思いたくなるものだ。」と説くのである。
数十年前に遡り、新卒採用で入社した時のことを思い出すのである。当時の本部長は入社一年目の若手社員をよく仕事終わりに飲みの席に連れて行ってくれたものだったのである。
夜も更けた頃には、かなりお酒がすすんで、本部長は酩酊していたようであったが、翌日には昨夜の一部始終を覚えていたのである。
お酒の席は「日中とは別の仕事場・試練の場」であった。「お前は何者だ」とか「お前はどこにいるのだ」とか「お前はダメだ」とかが飛び出してくるのである。当時の私には無理問答が毎回繰り返される苦痛の時間でしかなかったのである。
後になって「私はまだ何者にも成れておりません、私自身今どこにいるのかわかっておりません」と答えたことだけはよく覚えているのである。そして同時に腹立たしさと悔しさとが入り混じりながら毎回朝焼けとともに家路に着くのである。
本部長も必死だったと思うのである。新卒社員の着飾った表面ではなく、内面をどうにか覗こうと、わざと怒らせるように仕向けていた気概があったことは解ってもいたし、言うまでもないことである。
そして、「お前の大義は何だ」とか「お前の旗印は何が描かれてあるのだ」とか「お前のここのこういう考え方が全然甘い、これこれこういう風に考えられないのがダメなんだ」といった具体的な言い方であったなら更に怒り、深く落ち込んで、イラついていたと思うのである。
一方で、この何とも代えがたい怒りに任せて相手を見返す「会心の一撃」を「有無を言わさぬ快答」を探す羽目になったこともよく覚えているのである。
アラン曰く「われわれが犯すもっとも驚くべきあやまちの一つは、長い時間隠れていた考えが怒りによってあらわれると思い待っていることである。そんなことは千に一度だって起こりえないのだ。」と説くのである。
そして「人間は自分の思っていることを言いたければ、自分というものを保っていなければならない。それは言うまでもないことだ」と説くのである。
確かに怒りの中での冷静さは皆無であり、稚拙で排他的、横暴で短絡的な言葉だけが浮かんでは消え浮かんでは消えするだけであったのである。

アラン曰く「怒りと絶望はまず第一に克服しなければならない敵である。それには信じなければならない。希望を持たねばならない。そしてほほ笑まなければならない。こうしながら、仕事を続けねばならない」と説くのである。
当時この書籍に出会っていたら、もしかしたら等と思うことはできない。怒りを克服するとは簡単なことではないのである。絶望もしかりである。しかしそれでも、そうわかっている前提で尚、精神を強く保ちながら自身と闘い続けねばならないと説いているのである。
さらに「不撓不屈のオプティミズムを原則中の原則として自らに課さないならば、すぐに最悪の悲観主義が現実のものとなってしまう。人間のおかれている状況とはそういうものなのだ」と説くのである。
※オプティミズムとは物事や将来を明るい方向へと捉える「楽観主義」「楽天主義」を指す
本部長という人間が発するダメ出しに対して「これは蓄音機から流れ出る雑音に過ぎない」などと到底思えなかったのである。しかもそれでは失礼に当たるではないかと思っていたのである。
アラン曰く「人間の口からでる内容のないことばが、たいていの場合、何か意味のあるような恰好をしているためだ」と説くのである。
このたいていの場合以外もあるとは思うのであるが、おそらく人間同士の会話の中に思想に基づいてなされる会話は多くはないと思うのである。「さあ、これからお互いの思想について議論を交わそうではないか」といった日常会話はほとんどないのである。
アラン曰く「われわれにはまだ、しなければならないことがある。堂々と生きること、自分自身の心に激しい苦痛を与えないこと、そして伝染によって、大げさな悲劇的な言葉によって、他人に苦痛を与えないことである」と説くのである。
さらに「人生の小さな不幸について、それを吹聴したり、見せびらかしたり、誇張したりしないことである。他人に対して、また自分に対しても親切であること。他人が生きるのを支えてあげること、自分が生きて行くのも支えてあげること、これこそ、ほんとうの愛徳である」と説くのである。
ひとは被害者意識に苛まれ、悲観主義に飲み込まれてはならないのだが、逆に言えば常に自身が加害者になる場合も容易に想像がつくのである。よく注意しなさいと説いていると思うのである。
決断拒否
株式等の投資の世界において「ロスカット」や「ストップロス」といったいわゆる損切りという行為がある。含み損が生じている状態で、損失の拡大を防ぐためにその資産を売却し、損失を確定させる投資行為を指す。
長期間回復が見込めない場合、将来のさらなる損失を回避するためのリスク管理手段であるのだが、 損切りせず放置すると損失がさらに膨らみ続けるリスクがあるのである。そしてそのリスクは織込済みであるにも拘らず、初心者にはかなり難しい行為となるのである。
なぜか、これまでに掛けた時間(株価上昇が見込める購入銘柄を探しだすだけでも一苦労である)や、運用実績あるいは将来の見通しを予測し、さらには一度上がった株価を経験した後の下落であればその残影が脳裏に焼き付き売却の決断ができなくなるのである。
自身で実損を確定させる行為は残酷であり、あのタイミングで売却すればよかったと嘆いてみたり、もう一度上がったら売却しようと決断を先送りにしたりするのでる。また運よく相場が持ち直したなら先程の決断は無かったこととされてしまうのである。

アラン曰く「デカルトは、決断拒否はあやまちの中で最大のものであると言っている。眠りをさまたげるこの興奮状態は、ただ何ひとつ決定しないというあのむなしい決断、つまり決断拒否によるのだ。決断拒否のなかには荒ぶる力があるのだ」と説くのである。
さらに「思惟のおかげですぐに妥協策が講じられる。両方の側の結果が頭の中で浮かんできて、何一つ進展が見られない。頭の中で考えているだけでは何も変わらない。すべてが元のままである」と説くのである。
思うところ、このように活字で説明をされるまでもなく、日常のありとあらゆる場面において同様の事象はほぼ毎日経験していると思うのである。では、いったいこの決断拒否の姿勢からの脱却は可能なのであろうかと問いたいのである。
アランはこの決断拒否を病であると定義づけたうえで「この種の病において最悪なのは、自分はもうそこから逃れられないものと自分に断を下してしまうことである。まず間違いなくそうである」と説くのである。
病である以上、敵は自分自身の中のあるのである。そして病であれば治療の余地があるのではないかと思いたいのである。そして見事にその治療について説明がなされるのである。
アラン曰く「人はみんな、延期することのできない行動を知っている。すべての思いが、まずそこに走り、からだが後から付いていく。修道院の規律がこれと同じである。決断拒否をなおすにはじつによく効く。ただお祈りをすすめるだけではだめなのだ」と説くのである。
そして「何時に、何の祈禱をせよ、と命令しなければならない。権力の命令はいつも、まったくつっけんどんな、どんな理由も言わぬ命令である」と説くのである。
命令である以上、質問は受け付けない。ただ規則正しい習慣を持ち、規律を遵守し、期限を設ける。来たる日には有無を言わず決断せよと自身に投げかけ、決断による行動を共にせよ。それこそが治療なのだと示していると思うのである。
アラン曰く「考えるのは楽しいことである。だが、考える楽しみは決断する術によって支払われる必要がある」と説くのである。
無作法であってはならない
アラン曰く「注目に値することがらがある。黙っている意見に対してよりも、それなりの根拠をもった、明確なことばによる意見に対して、人はいっそう強く抵抗するものだ。後者の意見はアドヴァイスであり、たいてい、くだらぬと思う方がいい」と説くのである。
しかし、「ところが、前者については無視することができないのだ。まったくつまらぬところで、われわれを捉える。どうやって捉えられたかわからないから、われわれはどうやったら逃れられるのか知らない」と説くのである。
沈黙の与え手側の見方になるが、以前、日本の内閣総理大臣であった方の書籍を読んだ時のことを思い出すのである。人はどんな立派なことを言っても、心の奥までは隠すことができない。逆に冷静に黙っている奴ほど底が知れず、怖い存在となるのだ。と。
つまり、受け手側であっても与え手側であっても沈黙による意見というものが恐怖となって相手へ伝わるということを知っているのである。言葉や睨みの表情を浮かべずとも、冷たい視線を送る、ただそれだけで相手は縛り付けられるのである。

このことを理解し、故意に使用する者もまたいるであろうが、どういった環境下で使用するかで大きく異なってくると思うのである。また、そもそも不安や怒りをコントロールし、冷静なる沈黙を維持することも大変な訓練がいるであろうと思うのである。
誰彼構わずこれを行ったり、礼節が重んじられる場所で、あるいはまったくの初対面の人に対してこれを行うことは無作法であると思うのである。
アラン曰く「この世のどんなものに対しても非難の顔をひけらかしている人たちがいる。そういう場合には、できるだけ逃げる方がいい。なぜなら、人間は人間をまねてしまうから」と説くのである。
逃げる方がいい、それはその通りであり是非ともそうしたいものではあるが、魔女のような呪縛力のこもった眼差しを前に、いとも簡単にそれが成せるとは思えないというのが正直なところである。
アランは別のプロポでこのように説いているのである。ストア派の哲学者たちを引き合いに出し、彼らは「自己を、つらいと思う感情から切り離し、この感情を一個のものとして考え、「お前はものである。お前はおれには属していない」と言い切る毅然たる態度を取るのだ」と説いているのである。
※ストア派とは、紀元前3世紀のゼノンに始まる哲学集団の一派である。理性に従い、感情や欲望を制御して不動心を目指す禁欲主義が特徴であり、ストイックの語源でもある。
自身の運命を受け入れ、自分にコントロールできる思考や行動に集中すべく実践的な知恵を授けているといわれている。
つまり、魔女という相手に対して何かを考えたり行動するのではなく、自己の心の中の感情が今揺れ動いていると気づいた時には、これをコントロールしなさい、そしてこのコントロールの仕方については「礼儀」を用いることが賢明である。と伝えていると思うのである。
アラン曰く「もし君が礼儀というこの偉大な考えをあらゆる角度から検討するなら、君の考えをしるしに従って整えれば人のよろこびを損なうかもしれないような前兆は何ひとつ送り出すまいという何らかの固い決心をするだろう」と説くのである。
まず、相手から投げかけられるアドヴァイス、あるいは魔女の眼差しを感じたのであれば、そこから逃げること(自信をコントロール)そして、自身が誰かに魔女の眼差しを向けないように礼儀を重んじていれば、自然と不幸は遠のいてゆくだと伝えていると思うのである。
ただ礼儀作法と言っても漠然としたものであり、具体的にはどの様な作法を指しているのだろうか。武士道や茶道、あるいは柔道や剣道といった「道」に通ずる教えなのであれば私には経験がないので備わっていないようにも思えるのである。
アラン曰く「礼儀作法と言えるのはただ、とくに意識することなく行った行為、とくに示そうというつもりもなく何かを示した行為のことである」と説くのである。
また、「礼儀作法の規則として、身ぶりがどれ一つとっても的確で、しなやかで、堅苦しさや動揺のないのが必要だ。なぜなら、ちょっとでも動揺があると、それがまず伝わってしまうから。相手に不安を与える礼儀作法があるだろうか」と説くのである。
なるほど、心の状態が落ち着いていて、そこにゆとりが生まれていれば焦りがなく、優しく緩やかな口調で言葉が出てくる体が動くということであり、何よりもまず相手を安心させることこそが礼儀であると伝えていると思うのである。では逆に無作法とは何かである。
アラン曰く「粗暴さや荒ぶる力を感じさせるものはすべて、無作法である。無作法な人間は自分に対する恐怖すなわち臆病が感じられてしまうのだ。自分の思っていることをうまく主張できないことに対する恐れである」と説くのである。

ある人が「何でわかってくれないんだ」と激高する場面に遭遇したことがある。気持ちや感情を言葉で伝えるには限界があるのかもしれない。この場合も一旦、自身の心の揺らぎを感じることができたのなら「礼儀」で自己コントロールしなければならないのである。
アランは無作法な人間を次のような者であると位置づけている「最初の衝動にかられている人間、すなわち思い浮かんだことを何でも言ってしまう人間、最初の感情に夢中になる人間、自分が何を経験しているのか気づかないうちから、遠慮会釈なく驚きや楽しさを示してしまう人間、そういう人間は無作法な人間である」と説くのである。
流石にハッとしてしまい、動揺を隠しきれないというのが正直な気持ちである。まるで4歳になる我が子を見ているようであったのである。つまり幼稚で稚拙な振る舞いのことではないだろうか。礼儀を弁えている者からすれば、成長していない大人と映るのだと思うのである。
アラン曰く「こういう人間はいつも言い訳を言っていなければならないであろう。なぜなら、そんなつもりはないのに、己が意に反して、他の人たちの心を乱し、心配させるからである」と説くのである。
自身に置き換え、顧みれば思い当たる節はいくつもあるのである。そこには勝手な思い込みがあったと思うのである。「こちらが一旦気を許した相手なら、相手も私に気を許してくれている」と勝手に思い込み、のべつ幕なしに発言していたと思うのである。
アラン曰く「優雅な物腰とは、表現と動作の安らかな幸福である。それはだれをも傷つけることのないもの、だれをも不安にすることのないものだ。幸福になるためには、この種の美点を備えることがきわめて大切である。これらの美点はけっしておろそかにすべきではない」と説くのである。
幸福にならねばならない・誓わねばならない
アラン曰く「ある人が幸福を求める。するとたちまち彼には幸福をみつけることができないと宣告がなされてしまう。幸福はお金を払って、持ち帰ることのできるようなものではない」と説くのである。
当然ながら幸福というものはどこにも売っていない。望めば何でも手に入りそうなお金持ちでさえ、購入することは不可能である。幸福という品物どころか形すらないために探すことができないのである。
アラン曰く「幸福は、人がそれを自分の手の中に入れなければ幸福ではないのだ。幸福を世界の中に、自分自身の外に求めるかぎり、何ひとつ幸福の姿をとっているものはないだろう」と説くのである。
ふと思うことで、オリンピアン(Olympian)にとって金メダルは目標であり憧れでると思うのである。そして凄まじい努力や費やした時間、環境や健康に配慮し、その結果メダルを見事に手に入れたとする。このメダルは選手にとっての宝物だと思うのである。
しかしながら、同じメダルは作ろうと思えば作れてしまうのである。出場もしていない私が手にすることも可能と言えば可能かもしれない。つまり、物質としての金メダルは当然ながら何の価値もないのである。
「記憶」の裏付けが必要となってくると思うのである。悩み・苦しみ・もがき、代表選考で選ばれる前から闘い続ける鋼の意志と終わりのない努力、それだけでなく、取り巻く環境や誹謗中傷の渦、ありとあらゆる経験に基づく、自分にしかわからない、誰にも理解されないといった記憶から生み出されたものの象徴として存在していると思うのである。
こういった記憶とは過去の財産である。誰にも書き換えることのできない唯一の財産である。私はこの過去を見つめるゆったりとした時間が必要ではないかと思うのである。何も過去の栄光に浸れといっているわけではない。
慌ただしく過ぎてゆく日々の中で、新たな挑戦をする過程において、心が折れそうになることはしばしばである。卑下したり、諦めそうになった時に振り返り高いと感じた壁を乗り越えた過去の「記憶」を呼び起こすことは、大変重要なことではないかと思うのである。
アラン曰く「始めは無理にやらねばならないこともある。乗り越えねばならないものはいつもある。仕事を規則正しくすること、そして困難を、さらなる困難をも乗り越えること、これがおそらく幸福に至る正道である」と説くのである。
困難の大小は様々ではあるが、ピアノの発表会、運動会、受験、商談等何かしらの障害に対して自らぶつかっていき、悩み、もがいた経験からすれば、これまでに少なからず幸福感に包まれた経験はそれなりにはあったと思うのである。
このような一個人の幸福感について、遠くから見ている他人からすれば、これと言って面白くもなく、それどころか不愉快に映ってしまうと説いているのである。ではなぜ本人にとっては幸福なのであろうか。
アラン曰く「自分で規則をつくりそれに従っているから幸福なのである。自由な行動だから幸福なのである。規律を容認しそれにしたがうから幸福なのだ」と説くのである。
では、一度手に入れた幸福はその後どうなってしまうのだろうか。遠い過去のレガシーになってしまうのだろうか。古き良き思い出になってしまうのだろうか。それともそれを糧にさらなる躍動心に駆り立てられるのだろうか。
アラン曰く「何も持たない者は何ももらうことがでいない。自分一人で力を発揮し幸福になる者は、したがって、他の人たちによってさらに幸福となり力を発揮するであろう。たしかに幸福な人たちはより良い取引を、たのしい交換をするであろう。人に幸福をあたえるためには自分自身のうちに幸福をもっていなければならない」と説くのである。
さらに「彼らの魂に親密な幸福は、彼らの生命と同じほど深く、彼ら自身と釘で打ちつけられている。彼らは武器でたたかうのと同じように、自分自身の幸福でたたかっている」と説くのである。
つまり幸福を知る者は、最初は大変なことであっても「自分からやる」、「根気よく続ける」、「困難を乗り越える」と自分自身に誓いを立て、自発的な挑戦をし、試行錯誤を継続し、そのうえで目標に到達した暁に得られる幸福を惜しげもなく交換したり譲ったりするのだと伝えているのである。
このとき「この幸福を渡してしまったら何もなくなってしまう」とは考えてはいないのである。幸福を知る者は「また幸福を得ればよい」と考えているのだろうと思うのである。幸福による循環がさらなる幸福を生み出すことを彼らは知っていると思うのである。
ただし、生半可な覚悟で幸福は得られないことも彼らは良く知っているからこそ、「わが命の次に大事なもの」ではなく、「命と同格」である幸福を簡単には渡さないのである。では幸福得るための原理原則、つまり基本となるものには何が必要なのだろうか。
アラン曰く、幸福になる規則として「自分の不幸は、現在のものも過去のものも、絶対他人に言わないことである。すなわち自分について不平不満を言うことは、他人を悲しませるだけだ、つまり結局のところ、人に不快な思いをさせるだけだ」と説くのである。

規則、つまり絶対条件であると説いているのである。カウンセラー等の職業人に対しては当てはまらないかもしれないが、身近な友人や親兄弟だけでなくすべての人を対象として心に誓いを立てなければならないと思うのである。
アラン曰く「幸福になるのは、いつだってむずかしいことなのだ。多くの出来事を乗り越えねばならない。大勢の敵と戦わねばならない。負けることだってある。乗り越えることのできない出来事や、手におえない不幸が絶対ある。しかし力いっぱい戦ったあとでなければ負けたと言うな。これはおそらく至上命令である」と説くのである。
さらに「幸福になろうと欲しなければ、絶対幸福にはなれない。したがって、自分の幸福を欲しなければならない。自分の幸福をつくり出さねばならない」と説くのである。
冒頭にあった「ほんとうを言うと、幸福も細切れに分けられているものなのだ」と説いていたことを思い出すのである。その時々でおこる幸せや不幸といった感情はすべて心の持ちようであるということに気づかされるのである。
今なぜ幸せや不幸を感じているのか。一時的な情念から解放された状態で考えることができれば、それは「生きているから」だと結論づけられると思うのである。幸福も細切れであれば不幸も細切れだと捉え、不幸と不幸のはざまに幸福のピースを見つけ出す力が必要だと思うのである。

アラン曰く「最後に、用心のために言っておく。憂鬱な思考はすべて、自分をだます魂胆だと思ってさしつかえない。そう考えてよいのだ。なぜなら、われわれは何もしないでいると、すぐに自ずと不幸をつくり出してしまうものだから」と説くのである。
まとめ
著者:エミールーオーギュスト・シャルティエ、著書:「幸福論」に収められたプロポを拝読し、こまぎれになった93の幸福に触れたように思えたのである。
当たり前が当たり前でなくなりつつある今の世の中で、真の当たり前として「人は幸福にならなければならない」と思うのである。そして、その当たり前とはたゆまない努力、強い信念の上に成り立つものであると思うのである。
また、人は生まれてから死を迎えるまで誠に様々な「情念」、特に怒りや恐怖によって心を揺さぶられ続けることを知り、意識的に知ったことでこれをほほ笑みやあくび、礼儀正しさをもってコントロールする日々の努力が必要になることを知ったのである。
無意識に継続される習慣には良しとされるものだけでなく、偶像(イドラ)のようなものが含まれていることに気づかされたのである。自身がそれに無意識に服従している可能性があるこも知ることができたと思うのである。
そして自分自身が幸福になる為にはまず、強く幸福を本気で求め続け、ありとあらゆる情念に打ち勝ち、まずは幸福を手に入れる。そのうえでその幸福を惜しみなく分け与えられることができてこそ真に得られるものであると理解したのである。
個人的な見解による「読書感想文」でしたが、少しでも興味が沸いた方がいらっしゃればとても嬉しく思います。
心を揺さぶられたオススメの一冊

アラン 幸福論(岩波文庫)






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