独眼竜の聖地
- 2019年4月15日
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更新日:8 時間前
洒落てるねぇ!・粋だねぇ!
杜の都を見下ろす名城――仙台城と伊達政宗という“戦国の異端児”
宮城県仙台市青葉区川内一帯にそびえる「仙台城」は、東北の覇者として知られる「伊達政宗」が築いた居城として有名です。
現在では「青葉城」の愛称でも親しまれ、仙台市街を見渡す絶景スポットとして知られていますが、その石垣の一つひとつには、戦国乱世を駆け抜けた男の野望と覚悟が刻まれています。

第6の目的地に到着。平日にも拘わらず、大勢の観光客が見物に来ていました。今にも、飛び出してきそうな勢いです。
仙台城は天然の要害に築かれた“東北最大級の戦略拠点”としてその名を広く轟かせていました。仙台城が築かれたのは1601年。んっ?ということは・・・。
つまり関ヶ原の戦いが1600年ですから、「徳川家康」側についた伊達政宗は、戦後すぐに与えられた広大な領地を治めるため、新たな本拠地を求めて築城したことになります。
彼が選んだの土地が、ここ広瀬川と断崖に囲まれた青葉山です。この城の最大の特徴は、「天守閣を持たない巨大山城」であることに尽きます。
防御に優れた地形を活かし、自然そのものを要塞化していました。現在も残る高石垣からは、政宗が単なる武将ではなく、優れた都市設計者であったことがうかがえます。
実際、仙台の城下町は碁盤の目状に整備され、商業・軍事・政治のすべてを計算した都市構造になっていました。
よってここにある仙台城は、「戦うための城」であるだけでなく、同時に「未来の都市国家」の中枢でもあったのです。
〒980-0862 宮城県仙台市青葉区川内1
独眼
伊達政宗は1567年、出羽国米沢城で生まれました(幼名は「梵天丸」(ぼんてんまる)仙台藩初代藩主であり第17代当主出羽国と陸奥国の戦国大名です。
幼少のころ彼を襲ったのが天然痘です。一命をとりとめるも、右目を失い隻眼(独眼)となったことから、独眼竜の異名が付いたことは有名ですね。
しかし戦国時代において、身体的欠損は時に“弱さ”と見なされます。家臣たちの間でも、政宗の将来を不安視する声は少なくなかったようです。
追い打ちをかけるように、母・義姫との確執が生まれたとも伝わっています。醜き正宗より弟・小次郎を偏愛した母との関係は、後年まで政宗の精神に影を落としたと語られています。
さて皆さんはもうお気付きでしょうか。伊達政宗はお隣の山形県米沢城にて誕生したということは・・・。なるほど!だから、あそこ(上杉神社で愛を語る)に石碑が建っているんですね。

若き覇王――戦国を駆け抜けた“東北の風雲児”
18歳で家督を継いだ政宗は、驚異的な速度で勢力を拡大します。周辺大名を次々と攻略、瞬く間に東北最強クラスの戦国大名へと成長していきます。彼の戦術はそれは大胆かつ苛烈でした。
特に有名なのが「人取橋の戦い」が挙げられます。連合軍率いる二本松城主:畠山勢との戦では、兵力の差が圧倒的に不利な状況でも果敢に戦い(家臣:鬼庭良直らの功績が大きい)生き延びたことで政宗の名は東北中に轟きます。
さらに、敵対勢力への徹底した攻勢は時に“冷酷”とも評されました。しかし、それは群雄割拠の戦国時代を生き抜くために必要な決断でもあったのです。
伊達政宗が幼少期、世の中は戦国時代真っただ中。幼き心に天下を夢見た武将でした。しかし本当に残念ながら、破竹の勢いで隣国を攻め落とすも、時代がこれを阻んだのです。
既に豊臣秀吉の天下統一は目前に迫っていました。また、実の弟を殺害し、実の母親に殺害されかけ、人取橋の戦いでは実の父親ごと敵を射殺。伊達政宗はこのような環境下において、そのように人格形成されていったのでしょうか。

政宗には常に「天下を狙う野心」がありました。実際、豊臣秀吉の小田原征伐への参陣では、到着が遅れたことで処罰寸前にまで追い込まれています。
その際、死を覚悟して十字架を背負い「白装束」姿で秀吉の前へ現れた逸話は有名です。普通の武将なら命乞いをする場面ですが、政宗は逆に凜としていたそうです。この胆力こそ、彼が“只者ではない”と恐れられた理由でした。
個人的に思うことは「政宗があともう少し生まれてくる時が早ければ、きっと天下を統一したのでは・・・」たらればですが。
何処の城もそうですが、やはり見晴らしがよく広大な敷地に建立されています。どんな城だったのでしょうか。この場に直に立ち想像するのも楽しみの一つではないでしょうか。

なぜ伊達政宗は「傾奇者」と呼ばれたのか
戦国末期の「傾奇者(かぶきもの)」とは、常識に縛られない派手な装いと大胆不敵な振る舞いをする者たちを指しました。政宗はまさに、その象徴のような人物です。
黒漆塗りの甲冑に金色の三日月前立ては一目でそれとわかります。漆黒を基調とした軍装は、当時としては異様なほどスタイリッシュでした。時には普段装う着物が女性用の物であったとも。
彼は見た目だけではありません。感性の器が他の武将とダンチ・レベチでした。「常識に縛られない外交感覚」・「西洋文化への強い関心」・「キリスト教や海外交易への理解」・「支倉常長をヨーロッパへ派遣した慶長遣欧使節」これらは、戦国武将の中でも際立って先進的でした。
政宗は“東北の武将”でありながら、常に世界を見ていたのです。特に慶長遣欧使節は、日本史の中でも極めて特異な挑戦でした。太平洋を越え、スペインやローマへ使節団を送る――その発想自体が規格外だったと言えるでしょう。
彼の「傾奇」とは単なる派手好きではありません。誰もやらないことをやる。常識の外へ踏み出す。それが伊達政宗という男の本質でした。
伊達政宗とは乱世を恐れず、時代を先読みし、誰よりも大胆に生きた“戦国の革命児”だったのです。

ここへの道中、車の乗り入れが可能でした。その道の両側には高い石垣が聳え立ち、囲まれるように入り組んでいました。
難攻不落のお城であったことに間違いなさそうです。また、自然の地形と川に囲まれているのがよくわかります。隙も何もあったものではありません。
「入りそめて くにゆたかなる みぎりとや 千代とかぎらじ せんだいのまつ」
意味は「初めて入った国は豊かで千代(1000年)と言わず仙台(仙人の住む)程栄えるだろう」
伊達政宗公が仙台に居城を移したときに詠まれたものだそうです。もともとこの地は千代といい、のちの仙台の起源となったそうです。1000年先まで見通していらしたのですね。

伊達政宗は“戦うだけの武将”ではありませんでした。仙台の発展に力を注ぎ込むようにして、治水工事をはじめとする新田開発や商業振興にも自ら携わり、人の育成に必要な学問や文化の保護などを行ったとされています。領国経営にも非常に優れた才能を発揮します。
その結果、仙台は東北最大の都市へと成長していきます。また、茶の湯や和歌にも通じ、文化人としての一面も持っていました。
荒々しい戦国武将でありながら、知性と美意識を併せ持つ――そこにも政宗の魅力があります。
宮城縣護國神社にて、手を合わせてきました。

亡くなる前の晩に「自分が畳の上で死ねるとは思わなかった」と言ったとか。もう少し早くこの世に生まれていたら・・・。叶わぬ夢と言われますが、どうなっていたのでしょうか。
「曇りなき 心の月を先立てて 浮世の闇を 照らしてぞ行く」辞世の句
意味は「澄み切った心(信念)を月光に見立て、迷いの多い世の中をその信念を指針として歩んでいく」
ここで問題です。黒漆兜の前立てに金の三日月。左より右のほうが少し短いのは何故でしょうか?答えは次のブログでご報告いたします。
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