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関門海峡と巌流島

  • 2020年1月7日
  • 読了時間: 5分

更新日:21 時間前


下関と門司港をつなぐ


本州と九州を隔てる海――それが、古来より日本史の舞台となってきた関門海峡です。潮流は速く、わずか数百メートルの海幅の中に、交易、戦争、文化、そして数々の人間ドラマが交錯してきました。


現在では巨大な橋やトンネルで結ばれるこの海峡ですが、かつては「西国への玄関口」であり、「天下の要衝」と呼ばれた場所です。また古代から日本の“喉元”でもありました。


そして、この関門海峡に浮かぶ小さな島こそ、あまりにも有名な決闘の舞台――「巌流島」です。


門司港と下関の観光マップ。観光名所やアクセス情報が詳細に描かれ、カラフルな地図と各種案内のテキストが多数配置されている。

この旅の終着駅となる山口県下関市。ここにある生の風景を見たくてやってきました。関門海峡の名称は両岸の地名、馬関の「」と、門司の「」を取ってつけられたそうです。


穴戸海峡、馬関海峡、下関海峡とも呼ばれていて、最深部は水深47mほどありますが昔は船同士が接触することもしばしばあったそうです。


潮の流れが激しくぶつかり合う関門海峡。本州の端・下関と、九州の門司を隔てるこの海峡は西国へ向かう船は必ずここを通るわけです。つまり関門海峡を押さえる者は、日本の物流と軍事を制すると言っても過言ではありませんでした。


海沿いの道に並ぶヤシの木と、その向こうに広がる青い海。空は晴れており、遠くに山々が見える。穏やかな雰囲気。

ここで1612年、二人の剣豪が対峙しました。一人は、後に「剣聖」と称される宮本武蔵。

もう一人は、“物干し竿”と呼ばれる長刀を操った美剣士佐々木小次郎。日本史上、最も有名な一騎打ちです。


他にも、関門海峡の歴史を語るなら、まず避けて通れないのが「壇ノ浦の戦い」でしょう。

平家と源氏が激突したこの海戦では、幼き安徳天皇が入水し、平家は滅亡しました。


更には、尊王攘夷を掲げ倒幕の中心勢力となる長州藩による幕末の外国艦隊との衝突などいくつもの激しい歴史がここにあります。


つまり関門海峡は、「時代が終わる場所」であり、「新しい英雄が現れる場所」でもあったのです。


〒801-0855 福岡県北九州市門司区門司3492−2


今私がここを訪れたのはお正月です。1月。こんなきれいな景色を見ているだけで幸せに包まれてゆきます。


向こうのほうに見えるのは、関門海峡大橋。日本は島国ですから、いろんな所に大きな橋が架かっていますが、これも作ってくれる人がいるからここに有る訳で、感謝しないといけませんね。有難うございます。


青い空と海の下、橋が架かる風景。海沿いの遊歩道にはヤシの木が並び、人々が散歩中。背景に山と町並みが広がる穏やかな風景。

宮本武蔵という異端

宮本武蔵」は、常識に縛られない剣士でした。二刀流を極め、実戦主義を貫き、60余度の真剣勝負を無敗で生き抜いたと言われています。


しかし当時の武蔵は、まだ「天下に名を知られる剣豪」ではありませんでした。むしろ、粗野で型破りな浪人という印象が強かったとも伝わります。一方の小次郎は、洗練された人気剣士でした。


佐々木小次郎」は、長刀(物干し竿程長いと伝わる)を自在に操る天才だったようです。


秘剣「燕返し」は、飛ぶ燕すら斬ると噂されるほど、素早く目に見えない程の太刀筋だったとか。その優雅な立ち振る舞いから、多くの門弟や支持者を持っていました。


現代風に言えば、武蔵は超自己流“アウトローの実戦家”タイプであり、小次郎は英才教育の行き届いた知的な“スター剣士”のような感じです。


だからこそ、この決闘は単なる私闘ではなく、「異端 vs 正統」「野性 vs 美学」の戦いとして語り継がれるのです。


関門汽船唐戸1号桟橋。女性が桟橋を歩く。背後に青空と海。看板に「下関」や料金案内。穏やかな雰囲気。

昔、子供のころに童話を絵本を読んだ記憶しかありませんが、ここ巌流島で大決戦が繰り広げられました。そうです、宮本武蔵と佐々木小次郎の大勝負。


1612年4月13日。決闘の舞台となったのは、関門海峡に浮かぶ小島「巌流島」でした。潮の流れが異様に速く、海風は強烈。まさに剣豪同士の決戦にふさわしい孤島です。


しかし、この日最大の異変は――武蔵が約束の刻限に現れなかったこと。有名ですよね。


小次郎は苛立ちながら待ち続けます。ようやく小舟で現れた武蔵は、櫂(かい)を削って作った木刀を手にしていました。


伝説によれば、その木刀は小次郎の長刀よりわずかに長かったと言われています。これは偶然ではありません。武蔵は、距離を制するためと心理を乱すためにあえて遅刻し、あえて即席の武器を作ったのです。これぞ百戦錬磨の思考と言わざる負えません。



宮本武蔵の回顧録等を読んだことがあるのですが、彼は命のやり取りをするうえで、手段を選ばず、相手を知らずしてはまず戦わないといった自伝がありました。


つまり彼にとって勝負は、絶対に(100%)何があっても勝たなくてはならないといった強い信念がありました。死合は始まる前から既に始まっていたのです。


これに激昂した小次郎は、鞘を投げ捨てます。その瞬間、武蔵はこう言ったと伝えられています。


小次郎、敗れたり。鞘を捨てるとは、勝つ者のすることではない


次の瞬間。小次郎の長刀が閃き、武蔵の鉢巻きを切り裂く。だが武蔵の木刀は、その一撃より速く小次郎の頭部を打ち抜いたのです。勝負は一撃でした。あまりにも劇的で、あまりにも完成された物語です。


青空の下、大きな緑のゲート「ようこそ厳流島へ」。数人が岸辺を歩き、海と遠くの町が背景に広がる。

余談ですが、幕末の時代、坂本龍馬と妻の龍がここ巌流島にて花火をしたともいわれているようです。場所はわかっていないようですが・・・。雰囲気有りますよね。


龍馬暗殺までの、素敵なひと時だったに違いありません。


巌流島の正式名称は「船島」だそうです。名前の由来は、島全体が船の形をしていたとか。この日は風もきつく、島には遮るものがほとんどないので吹きっさらし状態でした。


木々に囲まれた公園内の看板。タイトルは「巌流島決闘の地」で、下関市についての詳細な説明が書かれています。

そもそも、なぜこの二人が戦いに及んだのか。それは両名共に腕の立つ剣客だったからです。当時、小倉藩の剣の指南役であった佐々木小次郎のもとに、二刀流の宮本武蔵が現れたことに始まります。


よくある「どっちが強いの?」と門人たちの興味本位からの話が、決闘に至ってしまうわけです。バカバカしいというか、勿体ないというか。そもそも命がけで戦うべき相手だったのかと悲しくなってきます。


海を背景に、剣を構える2体の侍像。青空の下、像は岩の上に配置され、侍が戦う瞬間を表現。像の足元に説明板あり。

長く細い剣を振りかざし、振り下ろした後すぐに、下方から切り返す技を持つ佐々木小次郎。


燕返し」とは言え、この時の佐々木小次郎は年齢60とも70とも言われており、当然勝ち目はなかったようです。その後、無残にも撲殺され。


看板に宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘シーンが描かれ、背景には島と木が描かれている。右側に詳細な説明文。

しかしながら、これらの出来事は史実に基づいているのかといった点が挙げられます。史料によってその内容は大きく異なるようです。


それでもなお人々が魅了される理由があります。それは、この物語が単なる剣術勝負ではなく、「どう生きるか」・「どう勝つか」という人間の哲学を映しているからに他ならないでしょう。



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