敵に塩を送る
- 2019年4月10日
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更新日:5月14日
好敵手「武田信玄と上杉謙信」
戦国時代を代表する英雄といえば、「甲斐の虎」武田信玄と、「越後の龍」上杉謙信の名を挙げないわけにはいきません。
両者は「川中島の戦い」で幾度となく激突しました。とりわけ第四次川中島合戦は、日本戦史に残る名勝負として知られています。

武田信玄と上杉謙信 ― 戦国最強のライバル
武田信玄は卓越した戦略家で有名でした。「風林火山」の旗印に象徴されるように、機動力と統率力を重視した軍団運用を得意としていました。
一方の上杉謙信は、毘沙門天を信仰し、自らを義の武将として位置づけた人物です。
興味深いのは、両者が単なる憎しみ合う敵ではなかった点です。
戦国時代「甲斐の虎」と恐れられた武田信玄公が、遠江の今川氏と相模の北条氏から経済制裁をうけて、塩不足でひっ迫していたとき、長年の戦で敵対関係にあった「越後の龍」上杉謙信が塩を送って助けたのです。
実際の史料解釈には議論もありますが、この話は戦国武将の美学を象徴するものとして語り継がれています。
この話から、「敵に塩を送るとは、争っている相手が苦しんでいるときに、争いの本質ではない分野については援助を与えること」のたとえとして生まれたのがきっかけとされています。

東北の名城を語るうえで外せないのが、福島県会津若松市にそびえる 会津若松城、通称「鶴ヶ城」です。
赤瓦の天守が美しく、戊辰戦争の激戦地としても知られるこの城は、単なる観光名所ではなく、日本の武士道精神を今に伝える歴史の舞台でもあります。
〒965-0873 福島県会津若松市追手町1−1
会津若松城の見どころ
まず、赤瓦が映える日本唯一の天守です。現在の鶴ヶ城天守は1965年に再建されたものですが、その姿は実に壮麗です。
特に注目したいのが、全国でも珍しい「赤瓦」これは寒冷地仕様として採用されたもので、雪深い会津ならではの工夫でもあります。
春には約1,000本の桜が咲き誇り、「日本さくら名所100選」にも選ばれています。白壁と赤瓦、そして桜の淡い色彩が織りなす景観は、まさに東北随一の絶景です。

次に難攻不落と呼ばれた堅城です。鶴ヶ城は、戦国時代から幕末に至るまで幾度も戦乱を経験しましたが、その堅牢さで知られていました。
特に1868年の戊辰戦争では、新政府軍の猛攻に対して約1か月もの籠城戦に耐え抜いたことで有名です。
城内資料館では、会津藩士たちの覚悟や、白虎隊の悲劇についても詳しく学ぶことができます。歴史好きなら、単なる城郭見学では終わらない深い感慨を覚えるはずです。
これは城壁をいち早く駆け上ったりできるようにと考えられた「武者走り」だとか。

「茶室 麟閣」
また、茶人で有名な千利休の子である小庵を会津の領主、蒲生氏郷は匿い、この茶室を作ったとされています。

「愛」の一文字
直江兼続 ― 義と知略を備えた名将
上杉家を語るうえで欠かせない人物が 直江兼続 です。「愛」の前立てを掲げた兜で知られる兼続は、上杉景勝の重臣として活躍しました。
軍略だけでなく政治・内政にも秀でた、まさに文武両道の武将です。
もっとも有名なのは、兼続最大の見せ場のひとつが、徳川家康に送ったとされる「直江状」です。
家康からの詰問に対して、極めて挑発的な文面で返答したこの書状は、結果として関ヶ原合戦の遠因となりました。
この大胆さこそ、兼続の真骨頂と言えるでしょう。巨大な権力を前にしても屈しない姿勢には、上杉家の「義」の精神が色濃く表れています。

長谷堂城の戦いで見せた采配もしびれます。慶長出羽合戦の一環として行われた長谷堂城攻めでは、兼続は約2万の軍勢を率いて最上軍と戦いました。
結果的には関ヶ原本戦で西軍が敗れた影響から撤退を余儀なくされましたが、その軍勢運用や補給管理能力は高く評価されています。
特に、撤退戦で軍を大きく崩壊させなかった点は、兼続の統率力の高さを物語っています。派手な武勇だけでなく、「軍を生かして帰す」ことができる将こそ、本当の名将なのです。
実は会津の歴史は、上杉家とも深く結びついています。豊臣政権下で上杉景勝が会津120万石に移封された時期があり、その家臣団の中心にいたのが直江兼続でした。
つまり、鶴ヶ城周辺を歩くことは、単に会津藩の歴史を辿るだけではなく、上杉家と直江兼続の足跡を感じる旅でもあるのです。
会津若松城を訪れる際は、ぜひ天守から城下を眺めながら、武田信玄・上杉謙信の激動の時代、そしてその精神を受け継いだ直江兼続の生き様に思いを馳せてみてください。
そこには、現代にも通じる「義」と「誇り」の物語があります。
〒965-0876 福島県会津若松市山鹿町1-25
ここには、戦国時代「越後の龍」と称された上杉謙信公の後継者(養子)である「上杉景勝」の「側近中の側近」直江兼続が住まわれていた場所です。
ここで、どんなことを考え、そしてその後に起こる東西対決をどう見据えていたのでしょうか。
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