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東北の聖地巡礼

  • 2019年4月10日
  • 読了時間: 5分

更新日:5月16日


東北もまた群雄割拠「戦国時代から明治維新まで」


飛行機の翼から見た雪に覆われた山々の絶景。空は晴れており、雲が点在している。翼に赤い丸のマークがある。

眼下に広がる大パノラマ――窓の外は連なる山脈。4月でも雪化粧で、その壮大さには日ごろの悩みがちっぽけなものに感じずにはいられません。絵に描いたような山肌には絶句せざる得ませんでした。


そして、機内から尾翼を見上げれば、何処までも続く「」と「」の景色。圧巻です。


これから向かうは、まだ見ぬ訪問先であり「教科書」や「書籍」あるいはNHK大河ドラマ等で一度は目にした会津若松にある「鶴ヶ城」です。


はやる気持ちを抑えつつも、まだかまだかと落ち着きがなく全く情けない自分に呆れてしまいます。


青空と雲海を背景に飛行機の翼が見える。翼には赤い円形のマークがあり、静かで開放的な雰囲気が漂う。

会津の魂を今に伝える名城「鶴ヶ城」


福島県会津若松市にそびえる名城といえば「鶴ヶ城」です。別名「若松城」とも呼ばれるこの城は、やはり単なる観光名所ではありません。


戦国時代の覇権争い、江戸幕府の統治、そして明治維新の激戦――日本史の転換点に幾度も登場してきた“会津武士道”の象徴です。


赤瓦の天守が美しい現在の姿からは想像しにくいほど、この城は激動の歴史を生き抜いてきました。


福島と書かれた建物の前に、白と緑の車が駐車。曇り空が背景で、ガラスに木が映り込む。静かな雰囲気。

ようやく空港に着陸できましたが、「シュワッチ」なんとウルトラマンがお出迎えしてくれました。やって来たのは福島空港。


思わず感動してしまいました。学生時分から一度はこの地に降り立ちたいと願いっていたことが、今ようやく叶ったのです。ここから今回の旅が始まります。


素敵な対応をして下さったレンタカーのスタッフの皆さんと別れて、一路「会津若松」を目指します!


空に雲が浮かぶ背景に、道路標識と信号機がある交差点。標識には「会津若松82km」「福島76km」と表示されている。

戦国時代 ― 東北支配の要となった城


鶴ヶ城の始まりは14世紀、蘆名直盛氏によって築かれた「黒川城」にさかのぼります。


当時の会津地方は、関東と東北を結ぶ交通の要衝。ここを押さえることは、東北南部の支配に直結していました。


16世紀になると、会津を支配したのが戦国大名・蘆名直盛氏率いる葦名氏です。黒川城は蘆名氏の本拠地として繁栄し、会津文化や商業の中心地へと発展しました。


しかし、戦国乱世の波は会津にも押し寄せます。


1589年、「摺上原の戦い」で伊達政宗が蘆名氏を破り、会津を制圧。黒川城は一時、伊達政宗の勢力下に入りました。


この頃の鶴ヶ城は、“東北制覇を狙う戦国武将たちの争奪拠点”だったのです。



豊臣政権下で近世城郭へ進化


1590年、豊臣秀吉による奥州仕置によって、伊達政宗は会津から移封されます。代わって入城したのが、豊臣政権の重臣・蒲生氏郷です。


氏郷は黒川城を大規模改修し、現在につながる近世城郭へと変貌させました。


城名を「若松城」へ変更し、七層の巨大天守を建設します。そして城下町を整備したうえで商業と武家文化を発展に寄与していきます。


特に、氏郷が導入した城下町構造は、現在の会津若松市の原型になったといわれています。つまり鶴ヶ城は、“戦う城”から“統治する城”へ進化したのです。


その後は代々有名武将のもとに置かれることのなります。戦国時代の約10年前から幕末の戊辰戦争までの約300年以上もここに君臨したことになります。


白い壁と石垣の大きな日本の城が青空の下に立つ。周囲には木と砂利の庭が広がり、穏やかな雰囲気が漂う。

平日につき、人影もまばらで天気も良く、思わず「来たよ~」って叫びたくなります。そう今ここのいるのが不思議なくらいです。やはり美しい。本当に美しいと思います。


写真では何度も見た第1の目的地、今津「鶴ヶ城」天守閣が面前です!



江戸時代 ― 会津藩23万石の政治中枢


江戸時代に入ると、鶴ヶ城は会津藩の中心となります。特に有名なのが、徳川将軍家と深い関係を持つ保科正之の時代です。


正之は、徳川家光の異母弟であり、幕府から絶大な信頼を受けた人物でした。彼は会津藩士に有名な家訓を残します。


ならぬことはならぬものです


この精神は後の会津武士道へと受け継がれ、幕末の会津藩士たちの行動原理にもなりました。鶴ヶ城は単なる行政拠点ではなく、“忠義と武士道の象徴”になっていったのです。



幕末 ― 戊辰戦争最大の悲劇の舞台


鶴ヶ城の名を全国に知らしめたのは、1868年の「戊辰戦争」です。旧幕府側についた会津藩は、新政府軍と激突。その中心舞台となったのが鶴ヶ城でした。


藩主は松平容保。彼は京都守護職として幕府を支え続けた人物です。新政府軍は最新式の大砲「アームストロング砲」を投入し、鶴ヶ城を猛攻撃。


しかし城は約1か月もの籠城戦に耐え抜きました。この戦いで特に語り継がれるのが、少年武士隊として知られる「白虎隊」です。


飯盛山から城下を見た白虎隊士たちは、城が燃えていると誤認。主君への忠義を貫くため、自刃という悲劇を選びました。


この物語は、日本人の「忠誠」・「武士道」・「悲劇性」を象徴する歴史として、映画やドラマ、小説で繰り返し描かれています。


屋根瓦が特徴的な城の空撮。背景に市街地が広がり、庭には数人の人々が散策中。冬の枯れ木が立ち並ぶ。穏やかな雰囲気。

明治維新後 ― 解体から復活へ


戊辰戦争終結後、会津藩は「朝敵」とされます。その象徴として鶴ヶ城は1874年に取り壊され、長く石垣だけが残る時代が続きました。


しかし地元の人々の「会津の誇りを取り戻したい」という想いによって、1965年に天守が再建。


さらに2011年には、幕末当時を再現した全国でも珍しい「赤瓦」へ改修されました。現在の鶴ヶ城は、単なる復元天守ではありません。


そこには、戦国武将たちの野望や徳川への忠義、幕末武士たちの覚悟と会津人の誇りが積み重なっています。


鶴ヶ城は「敗者の美学」を伝える城


日本の城には、それぞれ異なる魅力があります。「天下統一を象徴する大阪城」、「権力の絶頂を示す姫路城」、「徳川幕府の中心だった江戸城」他にも名城はいくつもあります。


その中で鶴ヶ城が語り継ぐのは、“最後まで信念を貫いた者たちの物語”です。だからこそ今も、多くの人がこの城に心を打たれるのでしょう。


会津若松を訪れた際には、ぜひ天守から城下町を眺めてみてください。そこには、教科書だけでは見えてこない「もう一つの日本史」が広がっています。


天守からの眺望は爽快でした。考えて考えて考え抜いて築城されているのだと感じさせられます。



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林の中に置かれた大きな石碑。石は濃い灰色で、縦に漢字が刻まれている。背景には落葉した木々が見える。静かな雰囲気。

新選組局長 近藤勇


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