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別名「舞鶴城」

  • 2020年8月5日
  • 読了時間: 5分

更新日:5 分前


海に浮かぶ名城「唐津城」

舞鶴城城下町・唐津が守り続ける誇りと伝統


今回訪れたのはここ「唐津城」 唐津城は、豊臣秀吉の家臣「寺沢志摩守広高」によって、慶長7年から約7年の歳月を費やして築城されたそうです。


江戸時代初期、初代唐津藩主となった寺沢広高によって築かれた唐津城は、海と川に囲まれた天然の要害。松浦川の河口に位置し、海上交通を見守る重要な拠点として発展しました。


青空と木々に囲まれた白い日本の城が石垣の上にそびえる、静かで晴れやかな風景

唐津湾を見下ろす小高い丘の上に、東西に伸びる松原がまるで両翼を広げた鶴のように見えることから、別名「舞鶴城」とも呼ばれているそうです。


青い海、白い砂浜、緑豊かな松原。その美しい景色の中に佇む姿から、訪れた人は思わず「まるで絵画のようだ」と感じると思います。


しかし、この優雅な城にはその美しさだけでは語れない、戦国から江戸へと時代が変わる激動の物語が秘められています。


唐津城の歴史は戦国時代を終え、新しい時代へ向かう頃に始まります。築城したのは「豊臣秀吉」に仕えた武将「寺沢志摩守広高」(てらさわ しまのかみ ひろたか)


広高は秀吉の命を受け、朝鮮出兵の拠点となった名護屋城の築城や兵站(食料・物資の輸送)を担った人物でした。


〒847-0016 佐賀県唐津市東城内8−1


秀吉からの信頼も厚かったのですが、世はまさに戦国時代。先を見据えた行動で、関ヶ原の戦いでは徳川家康側につき、その功績によって唐津の地を大きく発展させていきます。


そして勝利した暁には12万3千石の外様大名になります。最終的には、島原の乱に遭い息子は城内にて自害、子供もいなかったためお家は断絶してしまいます。


余談ですが、「石高」とは何でしょうか。1石=大人一人当たりの米の年間消費量、と定義されているようです。



豊臣秀吉が太閤検地を行って、全国の米の生産量を升を使って初めて統一基準で測りました。当時は結構いい加減だったようですが。


こうして国持大名に名を連ねます。そもそも、3万石程度では城を持つ事が出来なかったようです。


1級大名:国主 加賀藩(石高ランキング1位)や島津藩(2位)、伊達藩(3位)

2級大名:准国主 柳川藩や宇和島藩は立派なお城がありましたが、4級以下の家にはお城がないんです。


木製の案内板に唐津城の説明文が縦書きで並び、屋外の石垣と落ち葉の前に立っている。

さて、築城に広高が選んだこの場所こそ松浦川が唐津湾へ流れ込む河口にある満島山でした。なぜここだったのか?


答えは「戦う城」と「栄える町」を同時につくるためです。海からの敵を監視でき、川を利用した物流も確保できる――。まさに天然の要害を活かした場所だったのです。


広高は築城と同時に、松浦川の流れを整える大規模な治水工事や城下町の整備、防風・防砂のための松林づくりにも力を注ぎました。


その結果、現在の唐津の町の基盤が形づくられていったのです。特に有名なのが、城下に広がる「虹の松原


約4km以上続く美しい松林は、景観だけでなく、風や砂から町を守る役割も果たしました。


緑に囲まれた石段が上へ続き、手すり沿いに赤白の提灯、両脇に岩壁とピンクの花が咲く静かな庭園風景

唐津周辺には、豊臣秀吉が築いた「名護屋城」という巨大な城がありました。一時は全国から大名が集結し、まさに日本最大級の軍事拠点となった場所です。


唐津城は、その時代の技術や文化を受け継ぐ存在でもありました。石垣には高度な築城技術が使われ、安土桃山時代の流れを感じさせます。


つまり唐津城を歩くことは、江戸時代だけではなく、信長・秀吉・家康へと続く日本史の大きな流れを感じる旅でもあるのです。


青空の下、藤の紫と白の花房が頭上いっぱいに垂れ下がる、春らしい華やかな庭園風景。

一人の武将が描いた400年前の夢が、今も海風の中に息づいている場所なのです。歴史好きの方はもちろん、初めて唐津を訪れる方にも、一度この景色を味わってほしい名城です。


藤の花がきれいに咲き誇っています。樹齢は100年を超えるらしく、市の天然記念物に指定されているとか。


目前には城下町が広がり、松浦川から唐津湾に流れ込む高台に位置するため、天然の要害であったことでしょう。


青い海と島々を望む高台に、白い瓦屋根の建物と緑の木々。晴れた空に雲が浮かぶ静かな風景。

魂を揺さぶる唐津くんち


毎年11月、唐津の町は一気に熱気に包まれます。日本3大くんちの一つ「唐津くんち」なる秋季例大祭が毎年開催されるからです。


エンヤエンヤ」・「ヨイサヨイサ」の掛け声で大きな曳山が町中をうねり歩きます。長崎くんちや博多くんちも見てみたいですね。


太鼓の音が響き、掛け声が街角にこだまするのです。そして姿を現すのが、巨大で豪華絢爛な「曳山(ひきやま)」です。


レンガ壁に飾られた祭り絵のタイル。武田信玄の山車と担ぎ手、下部に元治元年(1864)などの文字が見える。

獅子、鯛、龍、兜などをかたどった曳山が、町の人々によって力強く曳かれながら進む姿は圧巻。


唐津くんちは単なる秋祭りではなく、唐津神社の秋季例大祭として長い歴史を持つ祭りです。


その起源は江戸時代、寛文年間(1661〜1673年頃)に始まった「御神幸」(ごしんこう)と伝えられています。


やがて町ごとの曳山が奉納され、現在へ続く壮大な祭りへと成長しました。最初の曳山となった赤獅子が奉納されたのは1819年とされ、その後14台の曳山が現在まで受け継がれています。


各町を代表する14台の曳山は、曳山展示場にて見学する事が出来るようです。九州北部にはたくさんの「くんち」が存在していおります。


平野の壁面タイルに、祭り装束の人々が獅子頭の大きな山車を囲む絵。右に「十番山 上杉謙信の兜」、下に「明治2年(1869)」

昼間、舞鶴城から唐津湾を眺める。海風を感じながら、かつて武士たちが歩いた城下町へ思いを馳せる。


そして秋、唐津くんちの迫力ある曳山が町を駆け抜ける。城と祭り――。


一見すると別々に見える二つの文化ですが、どちらも唐津の人々が守り抜いてきた「誇り」の証です。


日本三大くんちの一角とも称される唐津くんちは、ただ見るだけの祭りではありません。その場に立った瞬間、あなた自身が唐津の歴史の一部になったような、そんな特別な体験を与えてくれることでしょう。


唐津くんちのポスター。赤い魚の巨大な山車と金色の獅子山車、群衆の祭り風景。上部にKARATSU KUNCHI、中央に曳山・歴史の文字。

唐津観光協会 ホームページより

https://www.karatsu-kankou.jp/feature/karatsukunchi/

夜の祭り会場で、巨大な色鮮やかなねぶた山車が並び、赤や緑に光る武者人形の前に大勢の観客が集まっている。

宵曳山(よいやま)提灯の灯が浮かぶ幻想的な曳山


屋外の祭り会場で、赤や緑の獅子頭の巨大な山車が並び、黒服の人々が上で手を上げ、手前に赤い法被の群衆が集まる。

御旅所神幸(おたびしょしんこう)一番の見どころは「曳き込み!


青空の下、赤や緑の鬼の山車が並ぶ祭りの行列。下に大勢の観客が集まり、ビルや看板が背景に見える。

翌日祭(よくじつさい) エンヤエンヤ、ヨイサヨイサでフィナーレ!



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