戦国武将 真田幸村
- 2019年3月6日
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更新日:1 日前
真田丸
歴史の鼓動が、今もなお静かに息づく場所がある。大阪・天王寺区餌差町――そこに立つと、ただの街角が一瞬で戦場へと姿を変えた気さえする。
ここは、かつて「真田丸」と呼ばれた出丸が築かれた地。築いたのは、あの名将――戦国の武将 真田幸村。冬の冷たい風が頬をかすめる。目を閉じると、400年以上前のざわめきが蘇るのである。
〒543-0016 大阪府大阪市天王寺区餌差町2-17

大河ドラマ真田丸でも取り上げられていた場所へ。大阪市天王寺区餌差町にある心眼寺前
■ 命を削る“赤備え”の決断
1614年、大坂冬の陣。天下統一を目前にした徳川家康勢が、大坂城へと牙を剥いた。
圧倒的な兵力差。普通なら「籠城して耐え忍び、勝機を待つ」――それが定石だった。だが幸村は違った。
「攻めさせて、叩く」
そのために彼が築いたのが、この“出丸”だ。城の外に、あえて防御拠点を作るという大胆不敵な戦略だった。

わずかの手勢で、大阪冬の陣において徳川方を打ち払ったあのシーンは何度見ても、巧妙で鮮やか、知略に富んではいるものの、その決断を下すに至るまでの苦悩は、誰にも理解されない苦悩故の孤独でしかなく、何とも言えない辛さを感じづにはいられなかった。
■ 出丸という“罠”
現地に立つと、その意味が肌でわかる。
この場所は、大坂城本丸から少し離れている。つまり――援軍も期待できない、自らが敵を引き寄せるための“餌”となることなのだ。
「定めなき浮世にて候へば、一日先は知らざることに候。我々事などは浮世にあるものとは、おぼしめし候まじく候(このような不安定な世のですから、1日先さえどうなるかわかりません。私達などはもうこの世にいないものと考えてください)」
ただ幸村は乾坤一擲、捨て鉢ではなく、最適解を導き出しここに精鋭部隊を配置。敵が攻めやすいと錯覚する位置に、あえて拠点を構えた。
徳川軍はこれを見逃さなかった。「安易に落とせる」と踏み、一気に攻め込んだ。
だが、それこそが幸村の狙い。
狭い戦線、制限された進軍ルート。そして四方から浴びせられる鉄砲と槍の嵐。想定外の攻撃に徳川軍は混乱し、前にも後ろにも進めないのだ――。

■ 逆転の一手は“心理戦”
幸村の真骨頂は、単なる戦術ではない。敵の“心”を読む力にあったのだ。ただ心を読むといっても、読みあいになることは必至。されど、いかなる“読み”であっても、最後に徳川は
「ここは突破できる」と踏ませ思わせたのだ。
そう思わせてから、一気に叩く。期待を裏切る瞬間に、人は最も脆くなる。
徳川の大軍は、この真田丸の前で何度も跳ね返された。その様子は、まるで巨大な波が岩に砕けるようだったそうだ。
ただ思うことは、戦国の世において真田家の生き様は過酷を極めた武将の一人にすぎなかったということだ。そう、「日本一の兵(つわもの)」つまり“兵(へい)”なのである。
まさにそれを逆手に取った名言「関東勢百万も候へ、男は一人もなく候(関東の兵はたくさんいるが、男と呼べるほどの人物は一人もいない)」である。

■ 静寂の中に残る熱狂
今、餌差町の出丸跡地には、戦の音はない。車の音、人々の生活の気配――平和そのものだ。だが、足元に目を落とすと感じる。
ここで、命を賭けた知略と覚悟がぶつかり合っていたことを。真田幸村は、劣勢を覆すために「場所」を武器にした。そして、その一手は歴史に残る名防衛として語り継がれている。
■戦国武将 真田幸村の忘れてはならない史実、「真田家の二分」
忘れてはいけない背景がある。幸村は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、父・昌幸とともに九度山へ配流され、兄の信之は徳川方に属して真田の家名を守っているのだ。そして大坂の陣において、真田家は二分されることになる。
兄の真田信之(伊豆守)は徳川家康に忠誠を誓い、江戸幕府側(東軍)に属する。そして、真田家の存続を優先し、苦渋の決断として最愛の父や弟と別れる選択をするのだ。
一方、弟の真田信繁(幸村)は豊臣秀頼の招きに応じ、再婚先の九度山を脱出して大坂城へ入城(西軍・豊臣方)する。「真田の誇り」を胸に、徳川家康の首を討つべく、死を覚悟して戦ったのだ。
この二分は、戦国時代を生き抜くための真田家独自の戦略(真田家存続のための両面待ち)とも言われているが、家制度・家社会という当時の世相が色濃く映しだされた、なんとも物悲しい時代なのだ。
もしこの地を訪れるなら、ただの史跡として見ないでほしい。
一歩踏み出すごとに、想像してみてほしい。敵の足音、火縄銃の煙、そして赤備えの兵たちの叫びを。そうすればきっと――ただの街角が、心震える戦場へと変わるはずだ。
家紋六文銭を模ったこの鉄扉の向こう側に思いを馳せて。
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