日本の将来を背負って戦った長州藩
- 2020年1月7日
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更新日:5 日前
長州藩士の思い
攘夷の理想と国際情勢が交錯した激動の山口
幕末の日本において、山口を本拠地とした長州藩は、時代を大きく動かした存在として知られていますね。
その長州藩が外国艦隊と武力衝突を起こした事件が、1864年の馬関戦争です。
この戦争は単なる地方戦争ではありませんでした。日本が近代国家へ向かう転換点であり、長州藩が倒幕へ進む契機ともなった重要事件だったのです。
長州藩がなぜ馬関戦争へ向かったのか、その背景と役割を詳しく解説したいと思います
。

私事ですが最後の最後に見ておきたかった場所へ。聴くと観るでは大違いです。幕末に攘夷運動が吹き荒れる中、長州藩は他藩に先駆けて、ここ関門海峡を通る外国船籍への攻撃を行いました。
その後、各国列強の反撃にあい、長州藩はその勢力の違いにあえなく敗退。さらに、翌年には英・仏・米・和蘭の連合艦隊に大規模な攻撃を受けることとなります。これが「馬関戦争」です。
幕末日本を揺るがした「攘夷」の思想
19世紀半ば、日本は大きな国際的圧力にさらされていました。1853年、マシュー・ペリー率いる黒船が来航し、翌年には日米和親条約が締結されます。
これを契機に、日本は急速に開国へと進んでいったのです。
しかし、この動きに強く反発している勢力が存在しました。それが「尊王攘夷」を掲げる諸藩であり、その中心にいたのが長州藩だったのです。
攘夷とは、「外国勢力を日本から排除する」という思想であり、当時、多くの武士たちは欧米列強の進出に危機感を抱いていました。
アジア各地が植民地化される中、日本も同じ運命を辿るのではないかという恐怖があったからです。
江戸幕府との不平等条約や、隣国の植民地化を垣間見た結果、諸外国から祖国を守り抜かなければならないといった思いが募り、ますます攘夷運動も盛んにならざるえなかったのです。
街中では外国人に対する刃傷沙汰や辻斬りが相次ぎ、一触即発状態の均衡を長州藩が真っ先に破ることになります。
長州藩では、「吉田松陰」の思想的影響がかなり大きかったと思われます。松陰は海外情勢を深く研究し、日本が独立を守るためには国家改革が必要だと説いていました。
その門下からは後に明治維新を主導する人物たちが多数登場すことは有名な話ですね。

下関海峡という戦略拠点
長州藩が外国船への攻撃を実行した背景には、地理的条件も大きく関係していると言われています。
現在の関門海峡は、当時「下関海峡」あるいは「馬関海峡」と呼ばれていて、西日本海運の要衝でもありました。
瀬戸内海と日本海を結ぶこの海峡を押さえることは、軍事・経済の両面で極めて重要だったのは誰の目にも明らかなことでした。
1863年、孝明天皇は攘夷実行を幕府へ求めます。これを受けた長州藩は、攘夷決行の先鋒として動き出しました。
同年5月、長州藩は下関海峡を通過する外国船への砲撃を開始します。標的となったのはアメリカ、フランス、オランダなどの艦船でした。
当初、長州藩側は「海峡封鎖によって外国勢力に圧力をかける」意図を持っていましたが、実際には軍事力の差は圧倒的だったようです。
〒751-0813 山口県下関市みもすそ川町1−1 みもすそ川公園
四国連合艦隊との全面衝突
外国側は長州藩の攻撃を看過しませんでした。1864年、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの4か国は共同で艦隊を編成し、下関へ派遣。これが「四国連合艦隊」です。
9月、連合艦隊は下関沿岸砲台への大規模攻撃を開始しました。長州藩は懸命に応戦したものの、近代兵器を備えた欧米艦隊との差は大きかったようです。
砲台は次々と破壊され、市街地も被害を受けたのでした。結果として長州藩は敗北し、講和へ追い込ます。このときの戦いこそが「馬関戦争」なのです。
この戦争で、日本人は「西洋列強との軍事力格差」を強烈に認識せざる得ない出来事となったことは行くまでもありません。
またこの戦争で、長州藩指導部は、西洋諸国に対抗するには旧来の武士制度だけでは不可能だと悟りました。
そこで彼らは積極的に西洋技術を導入し、軍制改革を進める一方で、皮肉なことに「尊王攘夷」を掲げていた長州藩は近代化へと舵を切ることになります。

先の戦で使用された青銅製大筒のレプリカ。黙って侵略されていたならば、少なくとも今の日本はなかったでしょう。
この後260年続いた江戸の徳川幕府は大政奉還し、事実上江戸時代は幕を閉じることになりますね。

ここ関門海峡は、貿易の拠点として多くの船が所狭しと航行していたのだと思うと、歴史上、戦いの場は地の利を生かした場所で行われていたのでしょう。
その後、航空機が主力となった今、その戦い方に大きな変化をもたらすことを、当時の日本人には思いもつかない事だったでしょう。

馬関戦争は、単なる「外国との戦争」ではなかったのです。それは、長州藩が理想として掲げた攘夷の限界を知り、日本が近代国家へ転換する契機となった歴史的事件でした。
馬関戦争後、長州藩は「攘夷」そのものよりも、「日本を強くすること」を重視するようになり、その後、長州藩は薩摩藩と接近し、やがて薩長同盟へ発展してゆきます。これが江戸幕府を倒す大きな力となり、明治維新への原動力となったのです。
つまり馬関戦争は、長州藩が思想的にも軍事的にも転換する分岐点だったのですね。長州藩は敗北によって多くを学び、その経験を糧に日本を変革する中心勢力へ成長していったのです。
誰もが下関を訪れると、海峡を吹き抜ける潮風の向こうに、激動の時代を生きた志士たちの息遣いを感じることができるでしょう。きっと。
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