世界遺産 平泉
- 2019年4月18日
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更新日:5月24日
中尊寺
岩手県西磐井郡平泉町にある中尊寺には、戦乱の時代に「争いのない理想郷」を築こうとした人々の願いと、東北の歴史を大きく変えた奥州「藤原氏」の壮大な夢が刻まれています。

残念ながら、建物内での撮影はできませんでしたが、金色に輝く仏像をはじめ、柱・梁・壁面の至る所に施された彫刻や装飾等に目を奪われつつも、静かで荘厳な雰囲気に包まれ、やがて気持ちが大人しくなっていくように感じます。
中尊寺の創建は850年、比叡山延暦寺の高僧慈覚大師円仁によるものと伝えられています。
しかし、この寺が歴史の表舞台に立つのは、12世紀に奥州藤原氏初代「藤原清衡」が大規模な造営を行ってからです。
清衡公は、11世紀後半に長きにわたり東北地方で続いた「前九年の役」や「後三年の役」といった戦乱を経験しました。
清衡公の中尊寺建立の趣旨は「肉親同士が争い」「多くの命が失われ」そうした悲惨な現実を目の当たりにした際に、亡くなった生きとし生けるものの霊を敵味方の別なく慰めたい。
「みちのく(陸の果て)や(道の奥)いわゆる取り残された場所」といわれた辺境地であるこの東北地方であっても、仏国土(仏の教えによる平和な理想社会)を建設するのだという強い思いだったそうです。
そして、その理想を形にしたのが中尊寺でした。
〒029-4195 岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関202
彼が目指したのは、仏教の教えに基づく“浄土世界”の実現です。平泉の地全体を極楽浄土になぞらえ、寺院や庭園を整備しました。
中でも有名なのが、黄金に輝く「金色堂」です。内部には金箔や螺鈿細工が施され、当時の技術と美意識の粋が集められています。
単なる豪華な建築ではなく「亡くなった人々の魂を平等に弔う」という祈りの象徴でもありました。
また、中尊寺は宗教施設としてだけでなく、当時の東北文化の中心地としても大きな役割を果たしました。
京都の文化を取り入れながらも、北方交易によって得た豊かな財力を背景に、独自の文化圏を築き上げたのです。
平泉が「北の都」と呼ばれるほど繁栄した背景には、中尊寺の存在がありました。

散策ガイドマップより
しかし、その栄華は長くは続きません。1189年、鎌倉幕府を率いる源頼朝によって奥州藤原氏は滅亡します。
けれども中尊寺は破壊を免れ、今日まで900年近くその姿を伝えてきました。これは奇跡的ともいえることです。

中尊寺本堂前です。
世界遺産
そして2011年、「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」として、ユネスコの世界遺産に登録されました。
その理由は、美しい建築だけではありません。戦乱の世に平和を願い、人々の救済を求めた思想そのものが、世界共通の価値として認められたのです。
中尊寺を訪れると、金色堂の華やかさに目を奪われます。しかし本当に心に残るのは、その奥にある「争いのない世界を願う心」かもしれません。
約900年前に抱かれた平和への祈りは、現代を生きる私たちにも静かに問いかけています。「本当の豊かさとは何か」を。

敷地内を歩いていると何やら句碑が建っていました。
ここ中尊寺と江戸時代の俳人「松尾芭蕉」とは、とても深い文学的・歴史的な関係があります。
そして結論から言えば、中尊寺には芭蕉を記念した「句碑(くひ)」や記念碑が存在します。
特に有名なのが、芭蕉の『奥の細道』に登場する一句です。
「五月雨の 降残してや 光堂」
この「光堂」とは、中尊寺の象徴である金色堂を指しています。

1689年、芭蕉は弟子の河合曾良とともに『奥の細道』の旅へ出発しました。その旅路の中で、彼は東北文化の中心として栄えた平泉を訪れます。
当時の平泉は、奥州藤原氏が築いた黄金文化の面影を残しながらも、すでに滅亡から約500年が経過していました。かつての繁栄と、現在の静寂との対比に、芭蕉は強い無常観を抱いたのです。
「夏草や 兵どもが 夢の跡」
こちらは源義経ゆかりの高館で詠まれた句で「栄華はやがて消える」という歴史の儚さを象徴しています。

中尊寺には、後世の俳人たちや地元の人々が建立した芭蕉の句碑があります。 18世紀には、芭蕉を敬愛する俳句愛好家たちが、中尊寺に芭蕉記念碑を奉納しました。
実際に中尊寺を歩くと、不思議な感覚になります。杉並木に包まれた参道。静まり返る空気。金色堂の圧倒的な存在感。
それらを目の前にすると、芭蕉がなぜ心を揺さぶられたのかが自然と理解できます。

ここまでの道のりは、まあまあ急こう配の坂が続きます。途中、こんなところもありました。
息が切れて、足に乳酸がたまり動きが鈍っているのが情けない。先人に笑われないよう精進しないといけません。
平泉は約100年近く反映し、みちのくは戦争のない「平泉の世紀」だったそうです。
しかしながら、平氏政権を倒した源義経が、兄頼朝と対立し平泉に落ち延びたのもつかの間、義経をかくまった秀衡公が病死してしまいます。
4代目泰衡公は頼朝の圧力に耐えられず義経は自害に追いやられます。その泰衡公も頼朝に攻め込まれ奥州藤原氏は滅亡してしまうのです。
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