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太宰府天満宮に眠る雷神「菅原道真」

  • 2020年8月6日
  • 読了時間: 5分

更新日:4 時間前


菅原道真公が歩んだ波乱の人生


青空の下、石碑に刻まれた文字と鳥居が立つ神社境内。木々に囲まれ、静かで厳かな雰囲気。

ここは福岡県太宰府市に鎮座する「太宰府天満宮


現在では、全国から毎年多くの参拝者が訪れ、学問・厄除け・至誠の神様をお祀りしているお宮ですね。


ここに神様として「菅原道真公」が眠っていらっしゃるのは有名ですが、なぜ京都生まれの道真公が、ここ大宰府の神様になったのでしょうか。


その答えは、一人の天才学者が権力争いに翻弄された、され続けたあまりにも切ない歴史が隠されていました。


大宰府天満宮は、もともと道真公の祟りを恐れて作られたそうです。一体何があったのでしょうか。


〒818-0117 福岡県太宰府市宰府4丁目7−1


平安時代中期、845年に京都で生まれた菅原道真公は、幼い頃から群を抜く才能を発揮しました。


そんな道真公の家は高名な儒家の家でしたが、貴族としては貧しい方で地位も低かったようです。


和歌や漢詩に優れ、学問では右に出る者はいないと言われるほどの秀才だったそうです。


正六位下の地位から877年には「文章(もんじょう)博士」となっています。その後、従五位上、蔵人頭、参議、遣唐大使、右大臣と出世してゆきます。


努力を重ねて朝廷の要職を歴任し、ついには天皇を補佐する右大臣にまで昇りつめます。


緑の木々に囲まれた神社の境内。赤い橋が池を渡り、奥に石段と社殿、静かな秋晴れの風景。

いつの時代もそうですが、生まれた家の身分が低かったため、出世を妬む上流貴族の影響も多分にあったようです。


誹謗中傷が増えてきたころ「右大臣」や「右近衛大将」を辞任したいと上申するも却下され、逆に「尽く金」とまで激賞されます。



この時、ライバル関係にある「藤原時平」も17歳で蔵人頭になり、30前の左大臣(右大臣より格上)となります。


宇多天皇にも、譲位後の醍醐天皇にも信頼されていた道真公ですが、時の流れで次第に醍醐天皇は時平公と交流を深めてゆきます。


おそらく道真公が有能過ぎたか、隠居した父である宇多元天皇との関係が悪くなっていったからかとも言われているそうです。


寺の天井に吊るされた巨大な赤い提灯に黒い漢字が描かれている

このあと、時代が動きます。当時、朝廷では絶大な権力を握っていた藤原氏との政治的対立が激しくなります。


醍醐天皇と交流を深めていた藤原氏が、「道真公は醍醐天皇を排除し、自身の娘婿である宇多天皇の皇子を擁立しようと陰謀している」と讒言したと伝えられているそうです。


昌泰の変」なな、なんて事を!


このことがきっかけで、道真公は遠く九州の大宰府へ左遷されてしまいます。当時としては命がけともいえる長旅でした。


また、側近の子や関係者すべて流罪となってしまいます。無実の罪を被ってしまうのです。


都で栄華を極めた人生から一転、道真公は太宰府で質素な暮らしを送り、失意の中それから2年後の59歳で道真公は死去してしまいます。


赤と金の寺院の門を見上げた風景。大きな提灯としめ縄があり、奥に境内と青空が見える。

亡骸を牛車に乗せて進んでいたところ、急に一頭の牛が突然その場から動かなくなったそうなのです。


人々は「これは道真公がこの地に眠ることを望まれたのだ」と考え、その場所に墓所を築きました。そして、その墓所を中心に建立されたのが、現在の太宰府天満宮です。


ここから祟りが始まります。失意の最後を遂げた道真は、一夜のうちに大宰府から北野(京都府上京区)の地へ渡り、大量の松の木を生やしたとか、内裏を炎上させたとか。


青空と新緑に囲まれた神社の本殿。反り屋根と赤い柱が映え、静かで厳かな雰囲気。

その後も、京都では落雷や疫病、相次ぐ災害が発生し、道真公を陥れた人々が次々と亡くなりました。


当時の人々は、「道真公の深い無念が天に届いたのではないか」と恐れ、その御霊を鎮めるために神として祀るようになります。


こうして菅原道真公は、時代を超えて「天神さま」、すなわち学問・至誠・文化芸術の神様として全国で信仰される存在となりました。


こうなってくると、本来の神様像からかなりかけ離れているように感じるのは私だけでしょうか。「どうか落ち着いてください」と宥められる神様でよいのでしょうか。


そうではなく「一心不乱に努力を重ね、礼節を重んじ、実直に生きる人に、身に覚えのない罪をかぶせる等の陰謀を働く者を許さないぞ」という存在になられたのだと思うのです。


神社の境内で、女性が両手を上げて巨大な古木を見上げる。陽光に緑が映え、石灯籠や建物が背景にある。

恐ろしい逸話としてこういった話もあるようです。


燃えて焼け落ちた家屋の修復の為、大工たちが屋根の裏板を丁寧にきれいに鉋掛けをした翌日に、なにかぼんやりと透けて見えたので、梯子を上ってみた所、一夜にて虫食い文字で


つくるとも またも焼けなむ すがはらや むねのいたまの あはぬかぎりは


と書かれていたと言われています。


造り直そうとも、きっとまた焼けてしまうだろう。棟の板の間が合わない限り直せないように、菅原道真の胸の痛みの傷口が合って治らない限りは


神社の拝殿前に白い獅子像が座り、赤い木組みの回廊が背景に広がる。奥に祈願受付所の看板が見える】【。

また、雷神となって時平のいる清涼殿にも稲妻を落とそうとしたと言う逸話もあります。


この時、時平は手元の太刀を抜き「あなたは生存中も低い身分であり、雷神になったからと言っても、私に遠慮するのはこの世の習だ、なぜそうしない!」と言ったとか。


その時平も39歳で死去。その子息も40歳を前に次々と死去。


ここまでくると単なる「偶然」では説明がつきにくいでしょうね。でも、それでも偶然だと思いたいです。


寺院の門に立つ巨大な武将像。赤黒金の装飾で、複数の矢を受け止めるような姿が迫力満点。

その後も京の都では様々な天災地変が続き、藤原家一族の身の上に起こった不幸と重なり怨霊説が広まったそうです。


赤と白の天井の下で、弓を持つ武将像が座る。青や金、格子模様の衣装で、厳かな雰囲気。

その後、一条天皇の時代には、道真公の神格化が進み、「太政大臣」が送られています。

なんかドロドロとしているように見えますが、これも時代なのでしょう。


とにもかくにも、無事に参拝をする事が出来て良かったです。出世しすぎたり、学問に秀でていると何かと疎まれたり、嫉妬されたりする世の中は早々にも改善されたらと思いますが、人の世にはつきものですね。



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