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【本能寺の変の真実】織田信長と明智光秀に残された多くの謎に迫る

  • 2021年3月23日
  • 読了時間: 6分

更新日:56 分前

黒幕・遺体・裏切りの真実を徹底解説


歴史上謎が多く、ミステリアスな雰囲気がプンプンするのは「本能寺の変」ではないでしょうか。


日本における歴史の節目はいくつもあって、どれも見過ごすことはできませんが、今現在もこれだけ謎が多い「本能寺の変」について考察したいと思います。


なぜ「織田信長の遺体」は発見されていないのか。なぜ「明智光秀の遺体」は発見されていないのか。そもそもなぜ「謀反を見破れなかった」のか。


光秀は「主犯」だったのか。「単独犯」なのか。「共犯者」はいたのか。「黒幕(フィクサー)」がいたのか。


歴史に思いを馳せることは正直面白いのですが、一種の「クーデター」ですから、現代でおなじことをおこなえば大変なことですし、銃刀法違反・凶器準備集合罪・殺人罪等の罪に問われます。まだまだ力ずくで世の中を変えられたと言うことです。


夕暮れの寺院入口。刻字入りの石柱2本が立ち、右に僧の像、瓦屋根と松がある静かな境内。

そもそも織田信長の遺体」が発見されていない理由として焼失した」あるいは「密かに運び出された」の二つが通説とされています。


ひとつには京都の阿弥陀寺に「僧が密かに信長の遺体を運び出した」という古い伝承があります。


信長と親しかった清玉上人が埋葬したという話です。近年では、この伝承を再評価する研究者もいますが、決定的な証拠はありません。


そしてもう一つは本能寺は炎上しており、信長は自害したと考えられています。これも本当に自害したのかと個人的に疑念があります。


その後寺は激しく燃えたため、遺体が炭化し、崩落した建物の下敷きとなって、光秀軍も完全な捜索ができなかったと考えられています。



個人的希望的観測として、織田信長は日本を離れて単身で世界へ出ようとしていたのではないかと思いたいのです。もちろんそんなことを裏付ける史料はありません。


国内に目を向けると戦国時代真っただ中であり、最強と謳われる武将であっても、言うことを聞かない者はまだまだ多く、日の本を纏め上げるには相応の時間を要すわけです。


あ~儂なら出来る、出来るが、面倒じゃ、光秀!お前に後のことは任せる。儂は世界をこの目で見たいのじゃ!日の本程度の小さな国の一つや二つ、お前たちにくれてやるわ!」とか言ってるのではないかと思ったりするわけです。


織田信長の性格や行動を考えると「世界へ目を向けていた可能性」は十分に想像できます。


つまり、織田信長は「死んだこと」にして、日の本を出奔してたのではないかと思いたい訳です。


〒604-8091 京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522


一方、そんなことを聞かされた明智光秀の心中は穏やかではなかったことでしょう。


有智高才の明智光秀をヘッドハンティングして一緒に起業しようぜ!」と誘っておき、命がけで開業目前まで漕ぎ着けた矢先に「俺抜ける」と言われたも同じです。


ふざけんな!この野郎~」ってな具合になったのではないかと思いたい訳です。


明智家家法によれば「石ころのような身分から信長様にお引き立て頂き、過分のご恩を頂いた。・・・一族家臣は子孫に至るまで信長様へのご奉公を忘れてはならない」と綴られています。


明智光秀も織田信長のそういった我がままを、なだめたり、説得したりして何とか「天下布武」の旗印のもと、日の本を纏め上げようと尽力していたのではないでしょうか。


信長は頭の切れる光秀の、有無を言わさぬ理路整然で首尾一貫の物言いに常に論破され、反論することができず、次第にイライラが募っていたのではないかと思いたい訳です。



戦国最強の武田軍も、信長の銃口の前で抗いながらもついに滅んでしまいます。戦えば勝利してしまうわけです。


信長は「天下布武」へひた走る先駆けとして、安土で祝宴を上げるため徳川家康など重臣を呼び寄せます。


その接待役を明智光秀に一任。しかし、信長は家康の前で「このような異臭のする物を振舞うつもりか!」と「怒鳴りつけ・叱りつけ」接待役を解任させます。


日ごろの不満をこうした形で晴らすわけです。子供っぽいと言えばそれまでですが。


それだけでなく、納めてきた丹波の国一国を召し上げられることに。さらに、自分より身分の低い「豊臣秀吉」の中国攻めに加勢してこいと命令。


これでは、いくらなんでもひどい仕打ちとしか言いようがありません。


超有名な詩があります。光秀と公家たちの間で催された連詩の会 愛宕山百韻より。


発句:光秀「時は今雨が下しる五月かな」と謳い始めました。しかし。

現代訳では「土岐は今天が下知る五月かな」と訳されています。


土岐」とは光秀の先祖に当たります。つまり「先祖が今天下人になる」と訳されているのです。今が潮時だ、自分が天下人になる!と取れますよね。


静かな寺院の木製の門と青灰色の瓦屋根。左に松、前に「進入禁上」の札と案内板、夕方の落ち着いた雰囲気。

ここで明智光秀は壮大な絵を描いたと思いたい訳です。「あ~、これだけ言っても我が殿は国外に出奔したいのか・・・、大事を成すべく人を失っては再びこの世は戦国の世に戻ってしまう


もう仕方がない。であれば、この光秀が謀反を起こす演技をし、信長様にはこっそり寺を抜けてもらうことにしよう」


「中国攻めに加勢する際にでも秀吉に事情を説明して、その後、わが軍を攻め入ってもらう段取りを予め取っておき、敗走先の山中で、誰か似た顔を者の首だけ掴ませて、討ち死にしたことにしよう


一瞬だけでも天下人にさえなれば、先祖も許してくれるであろう」となっていたと思いたいのです。


「我が敵は本能寺に在り」とは発言してない?


謀反の当日光秀は丹波亀岡の城から出陣し、秀吉のいる中国攻めへ加勢すると見せかけ、三又の交差点で一路京都へ方向転換したことになっています。


その交差点から本能寺までは約15㎞。明智の軍勢は1万5千人。一人づつ縦に並べたら一本の人の線でつながってしまう長さ。


よって、光秀が兵全員へ伝令を出すことは事実上不可能となり、やはり実際には発言してない可能性が高いそうです。


しかも、引き連れていた兵士たちは「秀吉の中国攻めへ加勢せず、京へ向かうということは、徳川家康を討つつもりなのだな」と思い込んでいたそうです。


まさか敵が信長だと知らずに本能寺に向かわされたと言うことですね。


しかもしかも「そもそも、信長が光秀を呼んで一緒に秀吉の所へ向かう段取りであった」という。えっ?歴史が変わるじゃん!面白い。


光秀が本能寺を取り囲み、その旨を信長の奉仕役であった森蘭丸が報告に上がるなり「是非に及ばず」と発したとか。


その意味は「いまさらごちゃごちゃ言っても仕方あるまい」ではないそうです。おそらく「とんでもない事態だ」と訳す方が正しいらしいですね。


これもすべて演技であれば全くとんだ役者ぞろいというわけです。


本能寺の木製案内板。縦書きの日本語説明文と英語・中国語・韓国語の文章が並び、寺の歴史を静かに伝える。

その後の光秀は、中国の毛利家との戦を一瞬で和睦に持ち込み、有名な「中国大返し」を行った羽柴秀吉と山崎の合戦で敗れます。


命からがら落ち延びようと山中を逃げていると、その途中にある小栗栖で地元土民の竹槍に突かれて命を落としたと伝えられています。


が、不思議なことに、岐阜県には明智家の家紋で知られる桔梗が示された「桔梗塚」と呼ばれている明智光秀の墓があります。


なんでこんなところに墓があるの?それは山崎の合戦の後、槍に突かれはしたがなんとか生き延びていた。しかも、関ヶ原の合戦にも出陣したと言う衝撃の言い伝えがあります。


よって、私のくだらない仮説がもしも正しければ

・織田信長は死んでいない

・明智光秀も死んでいない

・織田信長は謀反を見破れなかったのではなく、当然知っていた

・死人は少しでよいので、本能寺に詰めている家臣はごく少数でよかった

・光秀の単独犯ではなく、織田信長と明智光秀と羽柴秀吉の3名の密約であった

・黒幕も協力者も当然いない


となるわけです。今のように携帯が一つあれば、すべて解決する謎も、時代が時代ですからミステリアスですね。



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