広島城(別名:鯉城)
- 2020年1月3日
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更新日:1 日前
毛利輝元により創建
久しぶりのお城巡り。日は既に没していましたが、月夜に浮かぶフォルムは貫禄があり、じっと見つめること数十分。

鯉城
お城を前にすると、なぜか神妙な雰囲気に飲み込まれがちです。
この広島城は、1598年に毛利元就の孫の毛利輝元により創建され、その後第二次世界大戦によるアメリカの攻撃で倒壊すると言った歴史があります。
1958年に再建。このお城は「鯉城」とも呼ばれ、城下町には鯉と名の付くところが多いそうです。

昼間の鯉城
この築城に深く関わっているとされるのが豊臣秀吉の側近、築城の名手「軍師:黒田官兵衛」戒名後は黒田如水で、城の構造は大阪城を参考にしているようです。
築城時期は秀吉の朝鮮出兵時期と重なり、その前線基地となる名護屋城と大阪城、聚楽第との懸け橋の役目もあって、秀吉が派遣したという説もあるそうです。
〒730-0011 広島県広島市中区基町21−1
時代は戦国の終盤。祖父である「毛利元就」が一代で築き上げた毛利家は、中国地方を中心に大きな勢力へと成長していました。
しかし、毛利家の本拠地だったのは山間部の「吉田郡山城」この城は戦国時代の戦いには非常に優れた山城でしたが、時代は大きく変わりつつありました。
鉄砲が普及し、大軍を動かす政治の時代となり「これから必要なのは、山の要塞ではなく、人・物・情報が集まる平地の城だ」そう考えた輝元は、新たな拠点づくりへ動き出します。
輝元が選んだ場所は、現在の広島市中心部でした。当時、この一帯は太田川が作り出した中洲や湿地が広がる土地であり、一見すると城を建てるには不向きにも思える場所です。
しかし輝元は、そこに大きな可能性を見出していたのです。太田川の豊かな水運を利用すれば、人や物資が集まり、海にも近く、瀬戸内海の交易にもつながる。
つまり広島城は、単なる軍事拠点ではなく――「政治・経済・文化の中心都市を作るための城」だったのです。こうして1589年(天正17年)築城が始まりました。

毛利輝元が広島城に込めた思いとは何だったのでしょうか。城とはもはや権力の象徴的な考え方だけでは戦国の世を渡ってはいけません。
そこには毛利家がこれからも中国地方を支配し続けるための「未来への投資」的役割があったのではないでしょうか。
城下町を整備することで商人や職人を呼び寄せることができ、城を中心に町を発展させる。
現代風に言えば、巨大な都市開発プロジェクトです。輝元は自分の時代だけではなく、子孫の時代まで続く繁栄を願っていたのではないでしょうか。
しかしその後、日の本を二分する大きな衝突に巻き込まれるのです。勝利の女神はほほ笑んはくれませんでした。いや女神というより時代が輝元の思いに答えてくれなかったのです。
広島城が完成へ向かう頃、日本では本当の意味での天下統一への流れが加速していました。
豊臣秀吉の時代に一度は天下を統一するわけですが、やがて「関ヶ原の戦い」が勃発してしまいます。
輝元は西軍(豊臣秀吉側)の総大将に担ぎ上げられます。しかし敗北してしまうのです。その結果、毛利家は大幅に領地を失うこととなり、輝元は広島城を去ることになります。
完成したばかりの城は、毛利家の栄光の象徴になるはずでした。ところが歴史は皮肉にもその城を別の武将たちへ受け渡していくことになります。

先にも述べましたが、広島城にはもう一つの美しい名前があります。それが――「鯉城(りじょう)」です。
由来には諸説ありますが、代表的な説はこの地がかつて「己斐(こい)」という地名と関係していたというものです。
昔、この周辺には「己斐浦(こいのうら)」と呼ばれる場所があったそうです。「こい」という音から「鯉」の字が当てられ、そこから広島城も「鯉城」と呼ばれるようになったと言われているそうです。
また、広島城が築かれた場所は太田川の流れに囲まれた土地で、水に浮かぶ姿がまるで鯉が泳ぐようだったことも、別名のイメージにつながったとも伝えられています。
さらに時代が進むと「鯉」という名前は広島に深く根付いていきます。現在ある広島のプロ野球球団にも「カープ(鯉)」という名前が使われていますよね。
これは単なる偶然ではないんです。水とともに生き、復興を遂げて力強く歩んできた広島の町の象徴として、鯉は人々の心に残り続けているというわけです。

その城下には、廣島護国神社がまつられていました。お正月時期と重なって、人手も多かったのですが、参拝させて頂きました。
この大きな鳥居を潜り抜けるために、人込みをかいくぐって、出店の誘惑を遮って、大変でしたが、お正月早々に身の引き締まる思いでした。
帰り道、誘惑に負けて、ベビーカステラと、たい焼きと、焼きそばと・・・(笑)
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