備前岡山城主:宇喜多秀家が軍旗に用いた「兒」
- 2019年6月13日
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更新日:6月7日
岡山城は8年かけて築城

岡山県いかない?と誘ってくれたのは、私を気遣ってくれた妻の一言でした。
ここのところ、新しい事を始めたばかりの私の身の上に新しい諸問題が山積しており、毎日仕事で遅くなっている事への気遣いでした。
即座に「行こう行こう」と答えながら、この時何か救われたような気さえしていました。
朝7時に起床し、新幹線に乗り込み着いた先は岡山県。そこから路面電車で4駅目の「城下」駅。
岡山県はいつも通過地点でしたし、ゆっくり散策などしたことのない街でしたから、右も左もわからなかったのですが、目的地はしっかりと有りましたので一直線に目指しました。
行く先々に、岡山城創築者で戦国大名宇喜多家旗紋「兒」と、後に岡山城城主となった池田家家紋「揚羽紋」が至る所でたなびいていました。天気にも恵まれて少しずつ気も晴れてきました。
〒700-0823 岡山県岡山市北区丸の内2丁目3−1
宇喜多氏の軍勢は、家紋である「剣片喰紋」とは別に「兒」という大きな文字を染め抜いた旗を使用したことで知られています。
この「兒」は現在の「児」の旧字体であり、一般的には「備前国児島(こじま)との関係を示したもの」と解釈されています。
宇喜多氏の勢力は、備前南部から発展して児島湾沿岸地域とも深い結びつきを持っていました。
宇喜多秀家は、父の宇喜多直家から家督を継いで備前・美作・備中の一部を支配する大大名へ成長しています。
最盛期には57万石余を領し、岡山城下町の整備や児島湾周辺の開発も進めています。
近年での宇喜多家研究による旗印の解説でも「兒」は「児島の児」を表したものと説明されています。
つまり、宇喜多家にとっての「兒」は備前・児島の武士団としての誇りと結束を示すシンボルだった可能性が高いということです。
豊臣政権五大老にまで上り詰めた宇喜多秀家が掲げたこの一文字には、地域に根差した戦国大名としての自己認識性が込められていたのではないでしょうか。

漆黒の名城・岡山城の知られざる歴史
「烏城」と呼ばれた城が戦国の世をどう生き抜いたのかについて考察してゆきます。
岡山県岡山市北区丸の内2丁目にそびえる「岡山城」現在は岡山観光のシンボルとして親しまれていますが、その歴史をたどると戦国武将たちの野望や天下統一のドラマが色濃く刻まれていることが分かります。
「岡山城って黒いお城だよね」というイメージを持つ方は多いかもしれません。しかし、その黒さの裏には戦国時代を生き抜いた武将たちの知恵と権力の象徴が隠されているのです。
実は岡山城の始まりは、現在のような壮大な城ではありませんでした。戦国時代初期、この地には「石山」と呼ばれる丘があってそこに築かれた小規模な城砦が原型とされています。
当時、この地域を支配していたのは備前国の有力大名である「浦上宗景」でした。ところが、浦上氏の家臣だった一人の武将が頭角を現します。
その人物こそ、後に岡山城の礎を築くことになる「宇喜多直家」なのです。

宇喜多直家は「戦国三大梟雄」の一人とも呼ばれる人物なのです。「梟雄」とは知略に優れながらも「冷徹な手段」を辞さない英雄のことを指しています。
ちなみにあとの二人は一般的に「斎藤道三」と「松永久秀」とされています。やり方の良し悪しは一旦横に置いておいても、滅茶苦茶で度が過ぎたえげつないやり方を平気で使います。
直家は主君だった浦上氏を事実上追い落とし、備前国の実権を掌握しました。ここで面白いエピソードがあります。
直家は敵対勢力との和睦の席で相手を油断させ、毒を盛るなどして一気に排除したという逸話が数多く残されています。
そのため後世では「謀略家」のイメージが強く「備前のマムシ」とまで呼ばれることもあります。

直家の死後、家督を継いだのは息子の「宇喜多秀家」です。秀家は若くして「豊臣秀吉」に才能を見出され、豊臣政権の最高幹部である「五大老」の一人にまで出世します。
現在私たちが目にする「岡山城」の原型は、秀家によって1597年頃に完成したとされています。
当時の岡山城は最新技術を取り入れた近世城郭で、天守には金箔瓦まで使われていました。
「黒い城」の印象が強い岡山城ですが、実はところどころに金色の装飾が施されており、当時の人々はその豪華さに驚いたといいます。
いま風に言えば「誰にでも見られるように高級車を何台も並べているような権力アピール」だったのかもしれません。
写真は北西側より撮影したのですが、このお城どこか洋風さを感じないでしょうか。
戦国時代、初代城主「宇喜多秀家」が「豊臣秀吉」の指導の下で8年かけて築城したのですが、実はこのお城は他のお城にはない見所が結構多いのです。
1.金の鯱ってこんなに沢山あっていいの?
2.なんで壁が黒いの?
3.通常、正方形か長方形で築城されるのに、よく見たら壁に折れ点があるよ。
4.なんで本丸が川面に面してその姿をあらわにしてるの?etc...。
いまある岡山城は、残念ながら再建造されたものです。昭和20年の岡山空襲で焼け落ちました。

しかし栄華は長く続きませんでした。1600年の「関ヶ原の戦い」で「宇喜多秀家」は西軍の主力として参戦します。残念ながら西軍は敗北して秀家は八丈島へ流罪となりました。
ここにも「へぇ~」と思う話があります。秀家は西軍の主力でありながら流罪で済んでいるのです。また流罪先でも84歳まで生きました。
これは関ヶ原に参加した主要武将の中でも非常に長寿で「最後の豊臣家重臣」とも呼ばれています。敗軍の将であるにも拘らず長生きできた奇跡です。
関ヶ原の戦い以後、岡山城には「池田輝政」の子である「池田忠継」が入り、その後は池田家が長く岡山藩を治めました。
池田家のもとで城下町はさらに発展し、現在の岡山市の骨格が形づくられていきます。
観光で訪れた際には、黒く堂々とした天守を見上げながら「ここは戦国武将たちの夢と野望が交差した場所だったのか」と想像してみてください。
きっと今までとは違った岡山城の魅力が見えてくるはずです。
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