名護屋城は「戦国時代の終着点」
- 2020年8月5日
- 読了時間: 4分
更新日:6月12日
名護屋城
佐賀県唐津市鎮西町名護屋にある名護屋城は、戦国時代の終わりを象徴する歴史遺産として知られています。
現在は天守や城郭建築こそ残っていませんが、その広大な城跡に立つと、かつてここが日本の歴史を大きく動かした舞台であったことを実感できます。

以前より切望していた夢が叶いました。日本百名城の一つ。そうここは「名護屋城」前!
豊臣秀吉は九州の島津義久を降伏させ、ついで「関東惣無事令」の発令により奥州の伊達政宗を服従せしめました。
難攻不落と称された小田原城も20万の軍勢で取り囲み、ついには北条氏直自身から「自分の切腹により城内の兵の助命」を嘆願させ、実質の滅亡となります。
名護屋城が築かれたのは1591年。築城を命じたのは天下人となった豊臣秀吉です。
〒847-0401 佐賀県唐津市鎮西町名護屋1931−3
小田家家臣の天下布武から始まり、天下惣無事を成し天下統一を完了させるや否や、更なる歴史上とても有名で、長きに渡り日本が服属と征伐をと行った隣国明への侵略・出兵を始めたのです。ここがその拠点です。
一般的に戦国時代の城といえば、敵から領地を守るための要塞を思い浮かべるでしょう。しかし名護屋城は少し事情が異なります。
秀吉は全国統一を成し遂げた後、大陸への進出を構想していました。その拠点として築かれたのが名護屋城だったのです。
つまり、この城は国内の戦いのためではなく、海外へ向かうための司令塔として誕生した特別な城でした。

秀吉は、この地の地名が「ナゴヤ」と地元の地名と重なったことや、築城する山の名前が「勝男山」だったことで縁起が良いとしたそうです。
そして全国の大名たちが動員され、17万㎡の敷地に僅か8カ月という工期で、金箔瓦を用いた五重七層の天守を築城。
総勢20万5千人態勢で、大阪城に次ぐ壮大なお城として完成させたのです。

「なぜ京都や大阪ではなく、九州北西部の名護屋だったのか」その理由は地理にあります。
名護屋は朝鮮半島への海上ルートに近く、船団を送り出すには絶好の場所でした。また玄界灘を望む高台に位置しているため、防衛面や軍事面でも優れていました。
秀吉はここから大陸への夢を描き、多くの武将たちへ指示を出していたのです。
現在の名護屋城跡には立派な石垣や城郭の遺構が残されています。天守台から玄界灘を見渡すと、約430年前に秀吉や諸大名たちが同じ景色を眺めていたことに思いを馳せることができます。
さらに周辺には全国の武将たちの陣跡が数多く残されており、歴史ファンにとってはまさに宝庫です。一つひとつ巡ることで、戦国時代最後の大舞台のスケールを体感できるでしょう。

ここには、当時30万人を超える兵が陣立てされていましたが、水源が足りなかったようで、しばしば水不足を原因とする喧嘩が絶えなかったそうです。
当時の政治の中心がここ名護屋城にあったことは言うまでもなく、城下町は活気にあふれかえっていたことでしょう。
秀吉も自国での戦いではなかったせいか、茶会を開いたり、瓜畑で仮装大会などしてお戯れだったようです。
日本の戦い方は、大将は最後尾、何かあれば陣から敗走。これでは誰も付いてこないですよね。

ここは戦国乱世を勝ち抜いた秀吉が、その先の未来を見据えて築いた壮大なプロジェクトの象徴でした。
全国の英雄たちが集まり、天下統一後の日本がどこへ向かおうとしていたのかを物語る場所でもあります。
静かな城跡を歩いていると、石垣の一つひとつが「かつてここに日本中の武将たちが集結していた」という歴史の重みを語りかけてくるようです。

当時の戦国オールスターによる陣屋跡マップがありましたので、足を延ばして見て参りました。

総数100人を超える武将が名護屋城周辺に陣立し、118か所が確認されているようです。うち65か所が今も残っているようですね。
加藤清正陣跡はじめ、黒田・伊達・小西・島津・福島・前田・毛利・木下・上杉(順不同)他。徳川もありました。

今は、保育園の傍にひっそりとその面影を残していました。

ここは、伊達政宗陣跡。交差点の名称が「伊達政宗陣跡」ですって。民家の隣りで敷地に入ることはできませんでしたけどね。
そして秀吉死去の後、時代は流れ、関ケ原の戦い後あっけなく廃城。わずか7年しか使われなかったそうです。
廃材は唐津藩により唐津城に転用。石垣も二度と使えないように徹底的に壊されました。
関連記事







コメント