拳鋼心弾
第一ラウンド
「身長、ん~175㎝ジャスト。はい、次は体重ね。履き物を脱いで台の上に上がってくださいね」
先日、年に一度のルーティーンの為、大阪城の見えるクリニックへ。この日の為に日々鍛錬を重ねて、健康には誰にも負けない自信があった僕は、過剰なまでの余裕からか、嫌々会場に向かったのである。
病気でもないのに、お医者さんや看護師さんの白衣を見かけると、何故だか心が癒される。日常の辛い事や傷口の痛みを優しく治してくれそうな、そんな錯覚に即効的かつ、何の抵抗もなく真っ逆さまに堕ちて行く僕。明らかに油断していた。
「カーン」重くて太い金属音。不意を突かれた僕に、無情のゴングが鳴り響いたのだ。
「77.7㎏・・・ちょっと増えましたね」
看護師による軽めのジャブが、襲い掛かってきた。こちらの動揺を誘っているつもりか。
「77.7なんて、ぞろ目でいいじゃん!なんかいい事ありそうだ」と思ったりはしない僕。「その手には乗らないぜ」
コンビニで「はい、お会計は888円です」とか、会社から家まで信号がずっと「青」だったりとか、左に曲がることなく目的つにつけたりしても、その後にいい事らしいことは、ただの一度も僕の身の上に起きたことはないからだ。
看護師は、脱着可能な軽い素材のシューズで、右に左にとフットワーク軽く、鮮やかなフェイントを織り交ぜながら、休みなくジャブを繰り出してくる。
それも、事前に僕の過去のデータを分析し、何もかも掌握済みだと言わんばかりに。機械的かつ作業的に淡々と、冷静な視線を僕に向けて追い込んでくる。
まずい、押され気味の展開だ。この流れを断ち切らなくては。
第1ラウンド終了間際、看護師が僕の視界の外側から放った、思いもよらぬ左フックが顎先を捉えたのだ。
「糖尿病に気を付けないといけませんよ~、はい、次は3番の視力検査室の前でお待ちくださいねぇ」
いったい何が起こったと言うのか。目の前が真っ白になった。
「カーン」第1ラウンド終了の鐘の音も、はるか遠くに聞こえる。かろうじてコーナーに戻る事が出来た。
息を整え、体力回復に努めて待っている間、ずっと考える僕。一体どんなパンチをもらったのか。
・・・「糖尿病?」「僕が?」「なんで?」「気を付ける?」「何に?」
「♪ちょっとーまって、ちょっとーまって、お姉さんっ♪」
余裕で癒されに来たはずの僕が、看護師から繰り出された強烈な左フックに、小さな脳みそが揺らされ、頭の中でカランコロンと音を立てている。
第二ラウンド
次のラウンドも、ポイント差で勝る様子は微塵もなかった。
見えていたはずの、「2.0」。
「じゃあ、これは見えますか」
じゃ、じゃあだと?「1.5」への切り替え作戦に出てきたのだ。
「見えないだろ?見えないよねぇ~♪」と言わんばかりに笑みを浮かべ、明らかに心理的動揺を誘ってきている。そう確信した。
「いやいや、さっきのは右で、それは上です」
闇雲に放ったパンチが当たらないことなど承知。確率4分の1に掛けるしかなかった。
正に拳と拳の殴り合い、リング中央でお互い一歩も譲らない「2.0」と「1.5」の激しい攻防がしばらく続いた。
しかし、事態は急変する。
第2ラウンド終了間際、またもや看護師が視界の外、しかも大外から思いもよらぬ右のフックを繰り出したのだ。
「では、これはどうですか」
光った場所が悪すぎた、心の支えが砕かれ、内側からえぐり取られ、持っていかれた瞬間だった。
「1.0」の下向き開口
第三ラウンド
1分間のインターバルでは、とても回復しきれていないまま、リング中央での打ち合い。体力温存のため、何とか動く左手を延ばし、相手にクリンチを仕掛けた僕。
しかし、腕の場所が悪かった。左腕をまるで何かに巻き付けられたように押さえつけられる。血管が浮き、血の流れが止まった腕がしびれだす。今にも破裂しそうだ。看護師は、僕を動けないようにした後、執拗に浮いた血管を叩き出した。
「じゃあ、ここに刺しますね。少しチクっとしますよ」
やめてくれぇ、僕の左腕を壊さないでくれぇ。
第4ラウンド
気が付くと私はマットの上に横たわっていた。
倒れたのか?何をもらった?どんなパンチを・・・。
僕の両脇に、白衣姿の男性が2人。「ドクターストップ?」
まだだ、まだ何も出せてねぇ。「スリップだろ?」そうだ、僕はまだやれる、こんなところで倒れるわけにはいかねぇんだよ。
応急処置なのか、鼻から管を通され、2人がかりでモニターを覗き込んでいる。
意識が朦朧とする。まるで麻酔でも打たれたかのように。
背中を擦ってくれていることに気付いた時には、口からよだれが垂れ流れていた。
苦しい、何をしているんだ。僕はまだやれるんだ。早くその管を抜いてくれ!
「はい、終わりましたよ~頑張りましたねぇ。ゆっくり抜き取りますから、声を出し続けてくださいねぇ」
弱った獣の呻き声に似た、力ない「あ~」という声だけが辺りに流れた。
しかし、僕は自分を鼓舞し続けた。諦めるな!よし!これからだ!立て!立つんだ僕!
良かった、脳の波形を見ていたのではなく、内臓だった。じわじわと僕を追いつめる看護師によるジャブだけでなく、知らない間にボディにも打ち込まれて効いていたのだろう。
慌ててファイティングポーズを取り、戦う姿勢のまま第4ラウンドは終了した。
最終ラウンド
その後、何度も倒れそうになり、立っているのが不思議なくらいだった。気力だけで体を支えている今の僕は、打たれ過ぎたせいで耳鳴りが酷く、周りの声も、ほとんど聞こえない状況だった。
瞼に塗り込んだゼリー状のクリームも、いつしか腹部にも飛び散ってくれたおかげで、時折看護師の硬く平らになった閃光を放つ拳が滑って、腹部を押し込んでくる激しいボディ攻撃を和らげてくれていた。
「はい、次は横になってくださいね。お腹の周りを滑らせて診ていきますね」
勝敗は判定に持ち込まれた。
残念ながら勝てる相手ではなかったのだが、結果を聞くまでが試合だ。負けた原因もわかずにリングを去るのは失礼だし、何より何故負けたかの原因を知りたかった。
僕は敗れた。完敗だった。
看護師が傍にきて何か僕に伝えている。耳鳴りでほとんど聞こえない中、必死で聞き取ろうとした。
「私、過去〇君のデー〇から分析〇てこ〇診断〇臨ん〇・・・」
何を言っているのかわからないまま、うんうんと聞こえている振りをした。
看護師は、僕にも賞賛をと言わんばかりに、腹部についたクリームをタオルでぬぐい取りながら、自分の横に立つように僕を促してくれた。
「えっ、こー」でいいのか。俯き加減で真横に立つ。勝者の気配を感じながら。
「肥満・デブ・醜い」とは言わない優しさと温もり
「老い・老眼・衰え」とは言わない気配り
「ドロドロ・ベタベタ」とは言わない配慮
「胃炎・胃潰瘍・ポリープ」とは言わない心意気
そこに、感服した。そして、今置かれている自分の劣悪なる状況を直視した。
こんなボロボロの体で、よもや生きている事すら不思議だと理解した。
残された時間を、有意義なものとし、やがて訪れる死を迎える準備と覚悟をした。
がっ、しかし・・・・。
試合後によくある、両者による握手やハグ。両者がたたえ合う感動の瞬間に、看護師チームが鋭い牙をむいたのだ。
思いもよらない、致命傷となる最後の一撃。なぜ今更!反則じゃないか!試合は既に終わっているんだぜ!
こうして僕の年に一度のルーティーン試合が幕を閉じた。
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