in佐賀県②

以前より切望していた夢が叶いました。日本百名城の一つ。

そうです、ここは「名護屋城」 〒847-0401 佐賀県唐津市鎮西町名護屋

豊臣秀吉は九州の島津義久を降伏させ、ついで関東惣無事令の発令により奥州の伊達政宗を服従せしめ、難攻不落と称された小田原城も20万の軍勢で取り囲み、ついには北条氏直自身から「自分の切腹により城内の兵の助命」を嘆願させ、実質の滅亡となります。

そんなさ中、小田家家臣の天下布武から始まり、天下惣無事を成し天下統一を完了させるや否や、更なる歴史上とても有名で、長きに渡り日本が服属と征伐をと行った隣国明への侵略・出兵を始めたのです。ここがその拠点です。

秀吉は、この地の地名が「ナゴヤ」と地元の地名と重なったことや、築城する山の名前が「勝男山」だったことで縁起が良いとしたそうです。こうして17万㎡の敷地に僅か8カ月という工期で、金箔瓦を用いた五重七層の天守を総勢20万5千人態勢で、大阪城に次ぐ壮大なお城として完成させたのです。

ここには、当時30万人を超える兵が陣立てされていましたが、水源が足りなかったようで、しばしば水不足を原因とする喧嘩が絶えなかったそうです。

当時の政治の中心がここ名護屋城にあったことは言うまでもなく、城下町は活気にあふれかえっていたことでしょう。秀吉も自国での戦いではなかったせいか、茶会を開いたり、瓜畑で仮装大会などしてお戯れだったようです。

日本の戦い方は、大将は最後尾、何かあれば陣から敗走。これでは誰も付いてこないですよね。

当時の戦国オールスターによる陣屋跡マップがありましたので、足を延ばして見て参りました。

総数100人を超える武将が名護屋城周辺に陣立し、118か所が確認されているようです。うち65か所が今も残っているようですね。加藤清正陣跡はじめ、黒田・伊達・小西・島津・福島・前田・毛利・木下・上杉(順不同)他。徳川もありました。

今は、保育園の傍にひっそりとその面影を残していました。

ここは、伊達政宗陣跡。交差点の名称が「伊達政宗陣跡」ですって。民家の隣りで敷地に入ることはできませんでしたけどね。

そして秀吉死去の後、時代は流れ、関ケ原の戦い後あっけなく廃城。わずか7年しか使われなかったそうです。廃材は唐津藩により唐津城に転用。石垣も二度と使えないように徹底的に壊されました。

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