北野天満宮


全国天満宮の総本社

〒602-8386 京都府京都市上京区馬喰町

菅原道真は平安時代の地位の低い貴族であったものの、「讃岐の国の長官」として赴任したのち疲弊していた讃岐を立て直したりとその功績などにより当時宇多天皇より信任重用され、息子の醍醐天皇時には中納言からわずか2年余りで要職の右大臣にまで出世しました。


当時左大臣であった藤原時平は道真の出世快進撃に、警戒心や嫉妬からか「道真は宇多上皇を欺き、あなた様を廃して娘婿の斉世親王を皇位にしようと謀反を企てている」旨を醍醐天皇に進言、とうとう九州の大宰府に大宰員外帥として左遷させます。


といった話が一般的ですが、道真と時平の両親は関りが深かったとも言われています。また本人同士も仕事上で頼んだり頼まれたりと関りも多く、時平は文章家としての道真を高く評価していたともいわれています。


ひょっとすると時平の陰謀によるものではなく、まばゆい出世を遂げる道真に反感を抱く一部の貴族層の嫉妬に同調せざる得ない格好になったからかもしれませんね。


これを聞いた宇多上皇は時平の仕業と疑い、醍醐天皇に面会しようと試みますが兵士たちに行く手を遮られて会う事が出来なかったそうです。醍醐天皇もそのことを知らなかったそうです。

冤罪

ココから大変なことが次々と起こってゆきます。太宰府への移動はすべて自費。左遷後は俸給や従者も与えられず、大宰府へ左遷の道中には監視役として兵を2名がつけられます。


命令文書には「道真は軍をひきいる頭とならぬ待遇にしろ」と明記され、各諸国では馬や食が給付されず、さらには国務国家に対する勤務を行う公法上の義務すら与えられない地位とされ何の待遇も与えられなかったそうです。


夫道真の大宰府への左遷後も京都に留まったとされる妻:宣来子と別れ、子供4人は各々流罪に処されました。


大宰府での生活は特に厳しく、大宰府の人員として数えられないばかりか、本庁にも入れなかったそうです。住居は大宰府政庁の南の外れに荒れはてて放置された廃屋で、貧しい暮らしを余儀なくされました。容易に想像はできませんね。


しかも大宰府のあるここ九州では、人を騙して銭をまきあげる詐欺師、何の躊躇もなく簡単に殺人を犯す犯罪者、平然と涼しい顔で肩を並べているギャング、賄賂で私腹を肥やす役人などが散在しており、もはや粛清することは困難を極めるといった環境であったそうです。


止めは、追い打ちをかける時平の差し向けた刺客によって菅原道真は命を狙われるのです。ここまでくるとメチャクチャですね。

こちふかば にほひおこせよ うめのはな あるじなしとて はるなわすれそ


道真が京の都を去る時に、庭に植えられた梅の木に対して詠んだ有名な詩です。それに応えるかのように春先になると都の梅が、京から道真がいる太宰府の屋敷の庭へ飛来したという「飛梅伝説」は有名な話ですね。


他にも松の木も梅に続けと京都から飛び立ったのですが、神戸の須磨区板宿町にある板宿八幡宮で力及ばず飛来したという「菅公の飛松」の伝説まであるくらいです。

逸話

道真公にまつわるいくつもの逸話があり、いずれもとても興味深いものです。


ある日、葦の葉が生い茂る沼の周辺で大きなナマズが横たわり通行人の邪魔をしていました。菅原道真は、刀で頭部、胴部、尾部の三つに切り裂き見事に退治したそうです。その後各々の部位がナマズ石となって、雨を降らす「雨乞いの石」となり地元の人々に大切にされたそうです。


菅原道真が岡山県にある天満宮に宿を取っていたとき、難産で苦しんでいる女性を不憫に思って詩を与えました。するとどうでしょう、苦しみは癒えて安産したそうです。その時に菅原道真が座った石を「腰懸(掛)石」として祀っているそうです。


菅原道真が時平の刺客によって暗殺されそうになったとき、「三千坊」という河童が彼を救おうとして手を斬り落とされ命を落としました。この逸話は福岡県の北野天満宮に、切り落とされた河童の手の亡骸と一緒に残っているそうです。


池にたくさんの蛙がいて、揃ってにぎやかにゲロゲロ鳴いていたそうです。その声を聞いていた菅原道真は、離れ離れになった家族のことを思い出し、歌を詠むと、それを聞いた蛙たちが、菅原道真の心境を察して鳴かなくなったという逸話。


こんなのもあります。大宰府へ左遷されたとき菅原道真は道すがら妖怪を助けたそうです。そのお礼として「我々妖怪は道真のご一行に害は与えません」という約束をしたという逸話も。まあ、ここまでくると脚色されたと言わざる得ないのですが、ホントかも(笑)


阪急京都線「淡路駅」にあるとおり、この地名は菅原道真が大宰府に左遷されるとき、この辺りを淡路島と勘違いして上陸したという逸話にちなんだつけた名前らしいです。

名言

未だかつて邪は正に勝たず


全ては運命の巡りあわせなのだから、不遇を嘆いて隠者のように閉じこもり、春の到来にも気づかぬような生き方はすべきではない。


世間では偉そうにべらべら喋る大学者さまが我が物顔で通るたびに有難がられているが、君が口を閉ざしても君の詩興が衰えることはないから心配するな


香は禅心よりして火を用ゐることなし 花は合掌に開けて春に因らず

憎悪の念

このような中での生活が続き暫くすると、朝敵・政敵の藤原時平にたいする憤りもさることながら、かつて天皇へ忠誠を誓ったことへも後悔しはじめ、捏造された罪が親愛なる家族や親戚までに及び、過去の偉大な功績をあっさりと忙殺されたことへの怒りや憎しみがやりきれない心を支配してゆきます。


そりゃそうでしょう!功績としては讃岐の立て直しや遣唐使の廃止といった大きなことを成し遂げたのに、それをすべてなかったことにされたら誰だって怒り心頭ですよね。

残念ながら、ついには都に戻る事のないまま、この大宰府の地にて果てることになります。「このまま終わって成るものか!」と聞こえてきそうです。怨霊となっての逆襲が始まるのです。


亡くなった直後から京都では天災や疫病が増え、雨が降らずに飢饉がおこり、藤原時平も39歳で死去し、醍醐天皇の皇太子も2人が続いて亡くなってしまいます。京都御所には雷が落ちて貴族が大勢なくなります。これをきっかけについには醍醐天皇も崩御。


これを人々が菅原道真が「天神」や「雷神」となって恨みを晴らしにやって来たのだと騒ぐようになります。これを鎮めるために建てられたのが「北野天満宮」です。


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