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京都御所


 

幕末の動乱

 

〒602-0881 京都府京都市上京区京都御苑3

京都御所外郭9門の一つ、禁門の変で有名な蛤御門。なぜハマグリなのか。それは通常時めったに開くことのない門が火災の際に開いたことから、「火に焼かれたハマグリが口を開いた」ことに例えられているそうです。


禁門の変はなぜ起こったのでしょうか。それは8月18日の政変で長州藩が京都から追放させられる命が下り、悔しさと憤りの中で起こった同志殺害事件「池田屋事件」が発端となったのですね。ここでは同じ長州藩の中で、慎重派と急進派で意見が割れています。


異国の脅威を目の当たりにしていた長州藩は、一向に重い腰を上げようとしない幕府に対して、久坂玄瑞などが天皇自ら軍を率いて「攘夷」を実行させようと画策しました。


大阪城にいた将軍徳川家茂を、孝明天皇が石清水八幡宮へ向かう際に同行させ、天皇からその場で直々に軍議を開かせ、なかば強制的に「幕府も攘夷に賛同するように」仕向けると言う計画です。

この動きに危機感を持った会津藩と薩摩藩は、京都守護職である松平容保に伺いを立て、薩摩藩士と会津藩士が親王中川宮を訪問して内容を説明し、説得にあたります。長州藩が朝廷を利用しようとしていると説得しました。


孝明天皇もまさか自ら軍を率いて指揮を取り、諸外国と一戦交えてこれを打ち払う等といった攘夷をする気は皆無、よって長州藩を京から排除せよとの密命が中川宮から出されたのです。


こうして長州藩は御所を追い出されてしまい、それだけでなく「朝敵」とされ、幕府から狙われる立場になってしまいます。


京を追い出された長州藩ですが、高杉晋作や久坂玄瑞らは引き続き情報収集のため潜伏活動をします。まさに命がけです。アウェイにいるんですよ。

そしてまたもや常軌を逸した計画を企てます。まず長州藩・土佐藩・肥後藩らの攘夷派志士が京都御所に放火、どさくさに便乗して政変の指揮者である中川宮を幽閉し、一橋慶喜(後の15代将軍)および松平容保らを暗殺して、孝明天皇を長州へ連れて行く計画を立てます。恐ろしい計画ですよね。現代では計画的殺害と拉致および監禁です。


しかし今回の計画も、京都守護職浪士隊「新選組」が知る事となります。尊王志士を支援し匿っていた枡屋を捕まえて尋問し自白したため、その会合が何時、どこで行われるのかといった情報は筒抜けだったのです。新選組の頭である近藤勇らは京都中をくまなく探します。


新選組も必死です。見廻り組に負けられない壬生の浪士魂があります。1864年6月5日京都三条の旅館「池田屋」で尊攘志士約40名が会合中の現場を発見。時刻は夜10時頃でした。


新選組の1番隊組長沖田総司らが踏み込み、副長土方歳三や3番隊組長斎藤一らも駆けつけ、尊攘派は命を落としました。やはり不意打ちに勝るものはないのでしょうか。

沖田総司が吐血したのはこの戦闘中ですね。

桂小五郎は運よく、池田屋を出ていて助かっています。禁門の変とは、長州藩が新選組に殺された同志の弔いと冤罪の主張の為に上洛したこの事件が原因となっています。


7月19日、長州藩と会津藩・長州藩が御所の蛤御門付近で衝突。戦闘が始まります。

今ものこる銃弾の跡。

最後まで朝廷との話し合いの希望を捨てない久坂玄瑞。戦乱の最中、命がけで公卿に長州藩の名誉回復を願い出しますが、公卿は拒否します。希望を失った久坂玄瑞は、自害してしまいます。


わずか一日で長州藩は敗北しました。

長州藩、会津藩は、長州藩屋敷に火を放ち京都大火となります。京都市内の家屋は2万戸以上が消失。まさに歴史上の大惨事となりました。


禁門の変は、幕府に長州へ攻め込む機会を与え、長州藩は朝敵とされ、幕府では長州へ攻め込む計画が進みます。しかも外国船籍への攻撃もあって、「朝廷」・「諸外国」・「幕府」の全てを敵に回したのですね。ふつう絶望的な状況ですよね。その状況をひっくり返す強者もまた長州藩士なんですね。


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