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読書感想文「星の王子さま」について

今回は、サン=テグジュペリ著「星の王子さま」を再度読み、その感想を残しておこうとする個人的な挑戦であり、また時が経過した後に読み返すことで、以前の感想とまた違った見解が得られるのかどうかといった挑戦でもある。


注意

個人的な読書感想文として構成した記事ではありますが、ネタバレする場合を考慮して、まだ本を読んでいない方はご注意ください。

サン=テグジュペリについて


サン=テグジュペリ

Wikipediaによれば、本名をAntoine de Saint-Exupéry(アントワーヌ ド サン=テグジュペリ)1900年6月29日にフランス共和国 リヨンにて貴族家庭の三男として誕生した小説家であり、飛行士でもある。


処女作は1929年に執筆刊行された「南方郵便機」である。その2年後の1931年に「夜間飛行」がベストセラーになり、1939年には「人間の土地」が出版され、アカデミー・フランセーズ賞を受賞する。


著者は、3歳9か月のとき、保険監督官であった父親を脳溢血で亡くしており、1914年第一次世界大戦が勃発すると、戦禍の及ばないスイスの学校へ転校し、青年期は聖ヨハネ学院で文学を修めている。


1921年に兵役が始まるころ、自ら志願して陸軍第二飛行連隊に所属するのだが、そこでの仕事は雑用ばかりで、飛行操縦ライセンスを取得していないことで航空機自体に触れることすら許されなかったのである。


そこで、民間が行っている飛行ライセンスを取得し、その後航空隊長や上層部に自分を飛行訓練性にするよう直談判まで行うのである。ありとあらゆる手段を使ってまで空を飛びたいという異様なまでの執着心が垣間見れるのである。


1930年にコンスエロ・スンシンという女性と結婚。1935年フランスからベトナム間を最短時間で飛行するという記録レースに挑戦する。しかし、離陸から20時間後に機体トラブルでリビア砂漠に墜落する。


生存が絶望視される中、3日後に徒歩で彷徨っているところを、たまたま通りがかったキャラバンの一行と遭遇し、カイロに奇跡的な生還をしており、この時の体験から本作品が誕生したと伝えられているそうである。


1936年第二次世界大戦が勃発する。フランス軍の招集命令後、偵察飛行任務を任されるのだが、ドイツの高性能軍用機の前に一か月余りで降伏するのである。


さて、人生の大半を戦禍の中に身を投じた彼は、著作「星の王子さま」を通して、何を伝えたかったのかについて考察し、読書感想文を書こうと思う。


数奇な出会い


まず初めにこの本と出合うきっかけとなったのは、友人の家の本棚に見覚えのある表紙が目に入ったことがきっかけである。幼少期に手にしたものと同じ物だとすぐに思い出した。しかしながら、内容を思い出そうとしても全く覚えていないのである。


また、読み始めても全く思い出せないため、お願いして拝借することにした。私の初見では「約160ページと読みやすく」短時間で完読できるだろうと思っていたのだが、いちいち手が止まるのである。おそらく子供には読みやすく、大人には読みにくいのであろう。


本書を手にしてたった数ページで物語が始まるのである。語り手はパイロットであり、飛行中にエンジン部分の故障で居住区から千マイル(1609.34㎞)も離れた砂漠に不時着する。


不時着機

整備士などの搭乗者のいない単独飛行中での事故、不時着した衝撃で機体もかなり損傷し、修理できるかわからなかったであろう。一週間分の水があるだけのそんな不安の中で不思議なことが起こるのである。


不時着時の衝撃でパイロットは大怪我をして、気を失ったまま生死の境を彷徨っているさなかに見ていた夢の話ではないかと思うのである。


夜明け前になって「おねがい・・・羊の絵を描いて!」と小さな変わった声で起こされるのである。夢の中だと思うが・・・。こちらの状況を知ってか知らずか全く無視して繰り返すのである。「おねがい・・・羊の絵を描いて!」と。


砂漠のど真ん中に、突如現れた男の子。水を欲しがったり、怖がりもせず、金色髪を揺らめかせながら、すくっと立ったままの姿勢でお願いしてくるのである。


パイロットは「絵は描けない」と伝える。なぜなら、幼少のころに大傑作と自画自賛する大作の絵を描いて見せたが、周囲の大人たちには認めてもらえなかった。それは、おおきな像を丸呑みしている大蛇の絵であった。パイロットは絵描きになるのを諦めたのである。


だが、目の前にいる男の子は諦めるということを知らない。パイロットは渋々羊の絵を描いて見せるのである。しかし、男の子は難癖をつけ始めるのである。「その羊は病気だ」とか「年を取り過ぎている」とか「牡羊だ」とか。


ヒツジ

描きたくないのないものを無理矢理描かされていたパイロットは、早くエンジンの状況を確認し、修理するため、最後に「丸い3つの覗穴の開いた木箱の絵」を描いて「君が望む羊はその中だ」といって絵を描くのを早々に終わらせようとするのである。


通常であれば「馬鹿にしてる」と思うところであるが「そうそう、これが欲しかったんだ」と男の子は笑顔になるのである。男の子は3つの穴から中を覗き込んで羊の様子を見るそぶりを見せはじめる。「あっ、寝ちゃった


これは本書で筆者が読者に伝えたいことの伏線になっていると思われる。そう、それは「想像力」であり「目に見えない大切なものの存在」ではないかと。


大人と子供の想像力には、まったくもってどうしようもない程の差があることに気づかされるのである。


大人は目や耳から入った情報よりも、数値的な情報の方がより正確で正しく判断が出来ると思っている。そしてどんなものも数値化できると思っている。しかし、子供は研ぎ澄まされた感性をもって判断する。「直感」ではないかと思うのである。


子供は子供なりに日々の選択に迫られているが、眉間にしわよ寄せて考え込んでいる子供の姿を見たことがない。常に即断即決ではないだろうか。物事を単純化するプロフェッショナルだと思うのである。


男の子

個人的に思うことではあるが、幼少期に備わっている感性は、おそらくどんな数値にもかなわないのではないかと思うのである。異物のない純粋でクリアな直感は、年を重ねるごとに濁ってゆくのだと思うのである。


もちろん大人にも良いところはある。経験値ではないだろうか。子供には経験値がない。積み重ねた経験値は「育む」を生み出して相手の気持ちを理解しようとしたり、寄り添おうとする気持ちが備わっていくのではないだろうか。


とにかく、不時着した瀕死のパイロットが、砂漠のど真ん中で可愛らしい王子様のような姿の男の子と出合うといった、数奇な出会いからこの物語は始まるのである。


自分勝手な物差し


大人」とは何なのであろうか。と自問自答したくなるのである。知識や経験が豊富で、思慮分別が出来るのが大人なのであろうか。正しい判断とは何なのであろうか。


パイロットは不時着した砂漠のど真ん中で、突如現れた目の前の男の子をのちに「王子さま」と表現し、その後「」と表現するのであるが、全く年齢の離れた子供に対して、そう表現させるものが確かにあったのである。


星の王子さま

前述したように、例えば、目の前には用意できない物や事象を相手に伝えるようとするとき、大人は決まって全てを数値化して伝えようとする。共通認識によって分かり易いと思い込んでしまっているからだと思うのである。


そして問題なのは、その数値に価値がないと判断するや否や、全く興味を持たないだけでなく、その存在すら否定し、避難し、あるいは愚弄するきらいすらあるのである。


また、大人の中での「当たり前」なことや「一般常識」と信じて疑わないことが覆されるといった場合においては、抵抗して見せたり、卑屈になったりしてなかなか受け入れられないといった場合もありうるのである。


少なくとも、子供と接するときには「数値化できない」物差しを使って、聞き方や話し方を心がけたいと思うのである。


早期に取り除くことの重要性


ヒツジが小さな木を食べるって、本当だよね?」男の子はパイロットに確認する。パイロットは返答する「うん、ほんとだ


じゃあ、バオバブも食べる?」と男の子はさらに続ける。パイロットは「バオバブは巨大だからゾウの群れを引きつれていったって食べきれやしない」と答える。


すると男の子は「ああよかった!」と賢そうな瞳を輝かせて笑うのである。つまりヒツジにバオバブの木を食べてほしいのである。


この「バオバブ」とは何なのかを知らなくてはいけない。地球上では「神秘の木」として知られており、アフリカの厳しい乾燥地帯で野生のまま生息している巨木で実在する。


神秘と称される由来は、バオバブの葉・樹皮・種子・実などは食品や薬として地元住民に愛用され親しまれてきたことによる。


バオバブの木

ではそんなバオバブの木を、なぜヒツジに食べさせたいのかが疑問になるのであるが、その理由はとても重要で、生き死にに関わる大事なことだと男の子に教えられるのである。


余談として、著書には著者が描いたと思われる「挿絵」がいくつも掲載されており、一度目にしたら忘れられない程の衝撃を受けるのは事実であるが、パイロットが伝えたいことが少し誇張しているようにも感じられるのである。


また、異世界のことなので地球上での一般常識は全く通用しないという観点から、男の子の詳細な情報はほとんどないように思われる。例えば「親兄弟」・「言語の習得」・「衣食住」等は「挿絵」からではとても想像に難いのである。


さて、話を戻して「バオバブの木」をここでは生きていく上での「障害物」として取り上げているのだと思うのである。男の子の星では、こうした植物の種がいくつもあり、「いい草」と「悪い草」がしょっちゅう生えるのである。


バオバブの木」は「悪い草」の仲間であり、放っておくと星全体を埋め尽くしてしまい、最後は破裂に至るというのである。それは確かに一大事である。


しかも、地中にある種はひっそりと眠っており、その良し悪しは表面上全く気付かないらしい。ようやく地上に芽を出したころ、すかさず剪定や伐根を行わないと、二度と抜けなくなるというのである。


男の子は「毎日のきまりにすればいいんだよ」とのちに言った。朝自分の身づくろいがすんだら、そのあと星の身づくろいを丁寧にする。丁寧にというのは「バラ」と「バオバブ」が酷似ていることから間違えないように、ということからだと思うのである。


男の子は言う「おもしろくもない仕事だけど、とてもかんたんさ


私はこう考えるのである。毎日のように後から後から芽をだす事象は、言い換えれば頭の中の「雑念」、あるいは体内で生まれ変わる「細胞」ではないかと。


雑念」の中には「煩悩」もあるが「閃き」もある。細胞にも「免疫」もあれば「」もある。これを男の子は毎朝丁寧に仕分けするというのだ。確かに面白くないかもしれないし、骨が折れる。毎朝毎朝整えるのである。ただ放っておくとどうなるかということである。


もし、自分の代わりにこれらを行ってくれる「ヒツジ」のような存在がいると知ったら、おそらく男の子のように「賢そうな瞳を輝かせながら」私も「そんなのあたりまえ!」って口に出して大きな声で言うに違いないのである。


キノコみたいな大人


子供のころ大人に軽くあしらわれた瞬間の、何とも言えない無力感と、大切にされていないと感じる一瞬、それがどれだけ寂しいものかを感じ取ったまま下を向いた経験をしたのは、私だけではないと思うのである。


子供と大人の歩幅は違う。これは一緒に歩むことで理解がしやすい。すると大人は子供の歩幅に合わせて歩こうとするだろう。しかし、子供の頭の中の考えは見えない。合わせにくいのだろうか。


大人と子供

 

きみはごちゃ混ぜにしてる・・・・・・・大事なこともそうでないことも、いっしょくたにしてる!」男の子は本気で怒っていた。


ここは何度か読み返してみたところでもある。不時着したパイロットが、生き死にをかけて飛行機の修理に追われているさなかに、男の子は「バラの棘は何のためにあるの?」とパイロトに質問するところである。


私なりに置き換えて考えてみることにした。もし「もうすぐ第一希望の大学受験だというのに受験票がみつからない」とか、もし「支払期日が迫っているのに資金が集まらない」とかである。こんな時に同じような質問をされたらと考えてみたのである。


同時に2つ以上のことを真剣に大切に考え、行動することができればよいとは思うのだが、一つのことに集中や没頭が必要な時もあるのである。ただ、同時に「好循環」と「悪循環」がそこには存在することに気づかされるのである。本件は悪循環の方である。


もう一つ気づかされたことは「焦り」である。確かに焦りは目の前の事象に集中してしまう傾向にある。5年後、10年後について焦ることはかなり少ない。今すぐにでも解決したいといった心の制御が困難な状況である。


またこの「焦り」がもたらす事象の多くは、往々にして解決できる可能性が高いことが多いのではないだろうか。仮にもし「もうすぐ夜明けの時間だというのに太陽が一向に昇ってこない」という事象を抱えたとしたら「焦り」は形を変えてしまうと思うのである。


別の方向からも検証してみる。男の子が伝えたかったことは何なのかを考えてみたのである。相手が切羽詰まった状況であるにも拘らず、こんな質問をするのは「子供だから空気が読めない」ではない。むしろ逆だと思うのである。


男の子は知っているのである。「飛行機が修理できる」ことや「その先の未来がある」ことを。また今の「悪循環」を一旦断ち切らなければパイロットが機体を壊しかねないということを。


キノコみたいな大人

でもそんなのは人間じゃない。キノコだ!」男の子のその一言で「悪循環」を断ち切るのである。キノコが何の象徴なのかは問題ではないのである。子供はある意味で天才だと思わせてくれる。パイロットの頭の中を「」で埋め尽くし「焦り」を吹き飛ばした瞬間である。


旅する男の子


男の子が地球という星にたどり着く前の話である。とても気位が高く高圧的ではあるが、綺麗で美しい「唯一無二のバラ」を置き去りにして、毎日お世話を欠かさず行ってきた星と別れてのち、多くの小惑星を渡り鳥のように転々とする旅を始めたのである。


バラ

一つ目の星には「王様」が住んでいた。王様はなにより自分の「権威が守られる」ことを望んでいた。常に全体の頂点に存していたいのである。


絶対君主であり続けるために「私は飴と鞭を上手に使い分けている」と勘違いをしており、周囲から見透かされていることにすら気づいていないため、誰も近寄らず、ずっと一人ぼっちのままなのである。


二番目の星には「大物気取りの男」が住んでいた。大物気取りの男はなにより自分が「称賛」されることを望んでいた。


他人から褒め称えられることに快楽を得るだけで満足し、耳に痛い話や助言には全く興味がない「痛々しい」男であった。


次の星には「酒びたりの男」が住んでいた。酒びたりの男はなにより自分の「過去を無かったことにしたい」と思っていたのである。


完璧主義者が気概を失っているようでもあるが、これは結構根が深いように思うのである。本人は気づかないであろう。この行動が続けば周囲にどれだけの影響を与えてしまっているかということに。そしてそれが、自身にどれだけの損失を出しているということに。


四番目の星は「実業家」の星だった。実業家の男はなにより「金持でいたい」ことを望んでいた。そのための来る日も来る日も時間を惜しまず働いたのである。


ただ、この男は「」をみる時間もなく、「くだらない」ことだと切り捨ててしまうのである。また、貯めたお金の使い道が何もないのである。


生き抜いてゆくには、先の見えない不安から少しでも解放されたいと思うのは「深謀遠慮」であって分からなくもないと思う一方、寂しいとも悲しいとも何とも言えない感情が沸いてくるのである。


持って「無い」から「欲しい」という欲求は誰にでもあると思うのであるが、いま「有る」ものを誰かのために「育てる」や、誰かを「慈しむ」ために使う時間をつくる余裕もないのであろうと思うのである。


五番目の星は「ガス灯に火をともす点灯人」がいた。点灯人はこれまでの星の住人と違い、男の子の心は動かされるのである。


点灯人は自分の置かれた環境に愚痴こそ漏らすものの、自分のためではなく誰かの、或いは何かのために、ただただ丁寧にきっちりと仕事をこなすのである。


その姿にを見た男の子の心の中に、「助けてあげたい」という気持ちが芽生えるのである。

口ではなく態度や行動で示すことが、こんなにも伝わりやすいのかと思わせてくれる瞬間でもあるのである。


六番目の星は「地理学者のおじいさん」が住んでいた。ただ、地理学者でありながら自分の星のどこにどんな山があって、どこにどんな川があるのかすら知らないでいるのである。


おじいさんのもとを訪れる探検家が、見て得た情報をただ精査して、分厚い記録台帳に書き留めるだけで満足し、実際には経験による体感は一切ないのである。


このおじいさんに「ここのカニ料理は身がぷりぷりで、甘くて、口から鼻に抜けていく香りは食欲を刺激するんだ」って伝えたら、きっと想像だけで食べた気になるのであろう。しかし実際の経験値はゼロなのである。


男の子はこのおじいさんから「はかない」という言葉を耳にするのである。はかないとは「ほどなく消えるおそれがある」という意味だと教えられるのである。そしてはかないものの存在は、地理学者の記録台帳には記載しないのだと。


はかない

私はこう思うのである。このおじいさんの心の中には「どうせ今さら」といった諦めの境地と、現実を知って、これまでの価値観が崩壊してしまうことの「恐怖」から逃げたいのではないかと。


最後におじいさんは男の子に「地球を訪ねなさい」「なかなかいいところと評判だ・・・」と伝えるのである。「評判だ・・・」の・・・は今風に言えば「知らんけど」という意味だと思うのである。評判と聞いても尚、自身の目で確認するのが怖いのであろう。


共通していることを探すと、様々な星に住んでいるのは「全て男」であるということ。おそらくここには深い意味はないのだと思うのである。


七番目の星


男の子が地球に落ちてきて初めて会話したのは、月色をした「ヘビ」であった。「こんばんは」念のために、男の子があいさつをすると、「こんばんは」とヘビがいった。


月色のヘビ

どこの星なの、ぼくが落ちてきたのは?」男の子が訪ねると「地球だよ。アフリカだ」とヘビが答えた。


そうか!・・・・・じゃあ地球には、誰もいないの?」と尋ねると「ここは砂漠だ。砂漠には誰もいない。地球は広いのさ」とヘビが答えるのである。


僕の星を見て。ちょうど真上にある」と男の子がいうと「美しい星だな」とヘビは答えるのである。「ここには、なにをしにきた?」と今度はヘビが問いかけると「ぼく、花とうまくいかなくなっちゃったんだ」と男の子が答えるのである。すると「ああ!」とヘビがうなずくのである。


砂漠ってあんまり誰もいなくて、さびしいね・・・」と男の子がいうと「人間たちのいるところでもさびしいさ」とヘビがいうのである。


きみって変わった動物だね」、「指みたいに細くて・・・」と男の子がいうと「王さまの指より強い」とヘビは言うのである。


そんなに強くないでしょ・・・足もないし・・・旅もできないじゃない・・・」と男の子がいうと「大型船で運ぶよりもっと遠くに、きみを連れて行けるぜ」とヘビがいうのである。


さらに「おれは、触れた者をみな、元いた土に帰してやる」というのである。「でも、どうしてきみは、謎めいたことばかり言うの?」と男の子がいうと「おれにはすべてが解けるから」とヘビはいうのである。


ここで会話は一区切りされている。


このちょっとした会話の端々に疑問が沸いてくるのは私だけではないと思うのである。まず、このヘビは「ここは地球で、アフリカという地であり、さらに砂漠であって、それは広い」という認識を持っていることである。


アフリカの大地

男の子が旅をして知り合った六番目の星の「地理学者のおじいさん」とは一線を画しているように思えるのである。つまり、ヘビは実体験を通して地球全体を掌握している気配を感じるということである。


つぎに、男の子が指し示す先の星をみて、すかさず「美しい星だ」と断言する。街灯もない真っ暗闇の中で見る夜空には、おそらく無数の、数えきれないほどの星々が煌めいていたはずである。


無数の星空

適当に返事をしたとは到底思えないのである。つまりヘビには見えていると思うのである。ヘビの視力を人間の視力の基準で考えてはいけないのだ。


そして、男の子は地球を訪ねた理由が「花とうまくいかなくなった」としているのであるが、花は本来自分が最も大切にしなくてはいけない「対象」である。それを置いて逃げ出してしまったという無意識でも無自覚でもない、なにか分らない心の叫びを伝えるのである。


それを聞いたヘビは「ああ!」とうなずくのであるが、男の子に地球に来た理由を聞く前から「全てお見通し」だったかのようである。まるで「だからお前は私の前にいるのだよ」と言いたいかのように。


また、「人間たちのいるところでもさびしいさ」とは、人は生涯孤独だと言いたいわけではなく、おそらく、「たち」とは「大勢」という意味と捉えると「心を通わせることのできる一人さえいれば寂しくはないのだよ」という裏返しなのではないかと思うのである。


なんど読み返してもわからないのは「王さまの指より強い」である。男の子が旅をして知り合った一番目の星の「王様」はなにより自分の「権威が守られる」ことを望んでいた。つまり権威の象徴は「」であるということではないだろうか。


想像を具現化すると、王様は大勢の聴衆の前では大きく両手を指の先まで広げて自分を大きく見せ、人に指図する際には指を相手に向ける。法案や契約には指を使ってサインし、有事の際には進軍する方向を指し示す。そう捉えないと理解に苦しむのである。


最後に「おれにはすべてが解けるから」という発言から、おそらくヘビは「神の化身」もしくは「神の使者」なのであろう。そうであってほしいと思うのである。決して「悪魔の」でないことを祈っている。


真実を知るということ


突然ではあるが、人は「ここでしか食べられないよ」といった食べ物をわざわざ食べにいったり、「ここでしか見ることができないよ」といった景色をわざわざ見に行った後で、別のいたるところで食べたり見たりできたとしたら、やはりショックを受けると思うのである。


男の子は自分の星でしばらくの間「バラ」と一緒に暮らしていたのである。バラは「自分のような花はこの世に一輪しかいない」と男の子に伝えていたのである。


ところが、地球に落ちてきて、砂漠を歩きつづけ、ようやく一本の道を見つけた先の庭園に、自分の星で話していたバラとそっくりな五千のバラと遭遇してしまうのである。


男の子は、自分の星にいたバラに対して一旦は暗い気持ちになるのである。ショックを受けたのだと思うのであるが、「嘘をつかれた」と非難することは一切ないのである。


そして男の子はなんとなく気づき始めるのではないだろうか。「・・・この世に一輪しかいない」といったバラの本当の言葉の前文には「あなたを心から愛している」という部分が欠けていたことに。


そんな時、男の子の前に一匹のキツネが姿を現すのである。このキツネは大人の私にも明確にとても分かり易く話をするのである。「」の作り方についてである。キツネは最後にとても大切な秘密を教えてくれるのである。


キツネと王子さま

男の子は「こんにちは」と声をかけ、「おいで、ぼくと遊ぼう」とキツネを誘うのであるが、「きみとは遊べない」というのである。理由は「なついてないから」である。


『なつく』って、どうゆうこと?」と男の子が聞き返すと、「それはね、『絆を結ぶ』ということだよ・・・」と教えてくれるのである。そしてさらに続けるのである。


きみはまだ、ぼくにとっては、ほかの十万の男の子となにも変わらない男の子だ。だからぼくは、べつにきみがいなくてもいい。きみも、べつにぼくがいなくてもいい。きみにとってもぼくは、ほかの十万のキツネとなんの変りもない。


でも、もしきみがぼくをなつかせたら、ぼくらは互いに、なくてはならない存在になる。きみはぼくにとって、世界でひとりだけの人になる。ぼくもきみのとって、世界で一匹だけのキツネになる・・・


大人にとってこの件(くだり)は理解しやすいのではあるが、実際に行動に移すのは容易ではないように感じているのではないだろうか。なぜそう思うのか。そのあたりもキツネは具体的に教えてくれるのである。


もしきみがぼくをなつかせてくれたら、ぼくの暮らしは急に陽がさしたようになる。ぼくはほかの誰ともちがうきみの足音が、わかるようになる」、「金色に輝く小麦を見ただけで、金色の髪をしているきみを思い出すようになる


麦畑をわたっていく風の音まで、好きになる・・・


子どもの好きになる」と「大人の好きになる」に違いがあるのだろうか。否、違いはないであろうと思うのである。好意を寄せる気持ちは素敵なことであり、寄せられる方も嬉しい感情に包まれるものではないだろうか。


では「恥ずかしいという気持ち」が芽生える前か後かによって異なってくるものだろうか。

もしくは「思いが伝わらなかったら」と後ろ向きな考えが行動を抑止するのであろうか。

いや違う。これは結末を知りたいだけの大人の思考であって、これは「結果」にすぎない。


もっと重要なことがある。それは「過程」ではないだろうか。さらに私はこう思う。キツネの言葉の間に「次第に」あるいは「少しづつ」という文字を足してあげればよいのではないかと。つまり、本当に大切なものになるには「時間」が必要になることが多いんだよ、と。


時間の経過

次に、キツネは『ならわし』について男の子に語り掛けるのである。ならわしとは「ある一日を、ほかの毎日とはちがうものにすること、あるひとときを、ほかの時間とはちがうものにすること」というのである。


これまで「何気なく」過ごしていた同じ曜日の同じ時刻の同じ場所で、「ただすれ違う人」がいたとする。ある日を境に、この「ただすれ違う人」の存在が心の中に変化をもたらして、同じ曜日の同じ時刻の同じ場所が「何気なく」過ごせなくなるということである。


ただし、同じ曜日の同じ時刻の同じ場所を共有していれば変化が必ずしももたらされるわけではないのではあるが、学校や職場で机を並べている人が欠席していれば「あれ?」と気づくことは当然におこる心の動きではないだろうか。


時間の経過に伴って、その変化が相手への好意であれば、性別や年齢等を問わず、近づきたいと思うことも、ごく自然なことではないだろうか。


こうして男の子はキツネを希望通りなつかせ「」を少しづつ深めていくのである。そして別れの時が来るのである。


分かれる前にキツネは泣きそうになりながら男の子に伝えるのである。「もう一度、バラたちに会いに行ってごらん。きみのバラが、この世に一輪だけだってことがわかるから


男の子はこのあと著書の肝である、著者が読者に伝えたいフレーズとして、キツネを通して真実を知るのである。


じゃあ秘密を教えるよ。とてもかんたんなことだ。ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは、目に見えない」と。


きみのバラをかけがえのないものにしたのは、きみが、バラのために費やした時間だったんだ」また、「きみはなつかせたもの、絆を結んだものには、永遠に責任を持つんだ。きみは、きみのバラに、責任がある・・・」と。


いちばんたいせつなこと


ここでまた考えさせられるのである。「いちばんたいせつなこと」とは自分にとって何なのかということである。


男の子は以前こんなことを言っているのである。五千もあるバラの庭園で、そこに咲くバラたちに向かって「きみたちは美しい。でも外見だけで、中身はからっぽだね」さらに「きみたちのためには死ねない」と。


きみのためなら死ねる」というセリフはいやというほど耳にする。時代や状況にもよるが、場合によっては自己犠牲であり、悪く言えば自分本位の自己満足による完結手段となりかねないのである。


無言であればまだ良いが、宣言でもされたなら、死なれた側にとってはトラウマになりかねない。とても肯定できるものではないと思うのである。逆に「死ねない」というのは相手にとっては耳に痛く厳しくも「まだまだだよ」という教えに繋がることだと思うのである。


しかしながら私はこう思うのである。「自分のためにそう言ってくれる人はいるのか」と考えるのである。


また男の子はこうも言うのである。水も食料も底を尽き「たとえもうじき死ぬとしても、友達がいたというのは、すてきなことだね」と。


死に対する恐怖もあるだろう。ただ死を前にしても尚、心と心の繋がりや絆という、そういう心の動きや気持ちを持てるのであれば、その命を全うしたのかもしれないと思うのである。


心の井戸

パイロットが砂漠に不時着してから1週間目のことである。飲み水が底をついた時、男の子はパイロットに「井戸を探そうよ・・・」と語りかけるのである。


こんな広大な砂漠のまんなかで、当てもない井戸を探すなんて馬鹿げていると思いながらも二人は歩き出すのである。


何時間も、なにも言わずに歩くうちに日も暮れて、男の子はつかれて座り込み、パイロットも傍らにすわるのである。すると男の子は「星々が美しいのは、ここからは見えない花が、どこかで1輪咲いてるからだね・・・」と言い、パイロットは「ああ、そうだ」と答える。


砂漠って、美しいね」とさらに男の子は語り掛け、「砂漠が美しいのは、どこかに井戸を、ひとつかくしているからだね・・・」というのである。


隠している」という表現には、やはり目には見えないという意味が込められてい形体ると思うのである。つまり美しい、或いは、愛おしいと感じるものには、決して目には見えないが、必ず心の中に「確信」めいた何かが宿っていると示唆していると思うのである。


夜が明けるまで歩きつづけた二人は、突如として井戸を見つけるのである。ただ奇妙なことに、その井戸は通常砂漠にあるような形体ではなく、町や村にあるような滑車や汲み取り用の桶まで装備された異質なものだったのである。


パイロットはとにかく水を汲み上げ、男の子の口もとまで運んであげるのである。「この水が飲みたかったんだ」と男の子は言う。そして「この水」はまるで祝祭の喜びのように、心にしみる水だったのである。


じつは、二人がまだ井戸を見つけられず探し彷徨っているとき、男の子がパイロットにこう話す場面がある。「水は、心にもいいのかもしれないね・・・」このときパイロットは意味が分からなかったらしい。読者の私もわからなかったのである。


異質な井戸から汲み上げられた「この水」は「心に潤いを与える」水であったのだと思うのである。心が乾いていてはいけない、心が乾いていたら大切なものが見えなくなると男の子が教えてくれていると思うのである。


男の子はこう言うのである。大人たちは「いちばんたいせつなこと」が分からなくなって、いつまでも走り回って疲れ切って、それでも見つけられずにいる。「だけどそれは、たった一輪のバラや、ほんの少しの水のなかに、あるかもしれないよね・・・


さようなら


不時着した機体の修理がうまくいったことを伝えようと、男の子のもとへ戻り着く少し手前で、パイロットの身に悪寒が走る。


パイロットの目は男の子をしっかり捉えているのだが、その当人は何者かと会話しているのである。男の子との距離二十メートル程である。しかしその話相手がまだ見えないのである。


男の子の目線は足元に向かっており、パイロットも男の子の足元へ目をやったのである。そこには三十秒で人の命を奪える、あの黄色のヘビが、王子さまにむかって鎌首をもたげていたのである。


パイロットは男の子を助けようとして、拳銃を取り出して必死で走りだしたのだが、その音でヘビは砂の中に潜り込んでしまうのである。


ヘビはきっと男の子にこう伝えたあとだと思うのである。「お前の願いを叶える代償として、体を置いて行け」と。


男の子は「地球」でヘビに噛まれたらどうなるのか。「」とはどうなることを意味するのかを既に理解していると思われるのである。


おそらくこの時点で既に、男の子はヘビに一度噛まれていると思われるのである。ただ、パイロットとのお別れをする時間を稼ぐために「場所がここじゃない・・・」などと言って、ヘビと上手に交渉し、時間を延ばしたのではないだろうか。


機械の壊れたところがわかって、うれしいよ。これできみは、家に帰れるね・・・」、「ぼくも、きょう、家に帰るんだ・・・」と男の子はパイロットに伝えるのである。おそらくヘビに飛行機の修理状況をパイロットより先に聞いていたのかもしれない。


飛行機が修理できるまでの間、ずっと自分の星へ帰る時期を待っていたとも考えられるのである。お互いが帰還する絶好のタイミングを見計らうかのように。


男の子はヒツジの絵をかいてくれた、ヒツジの木箱もかいてくれた、口輪をかいてくれた、水を飲ませてくれたパイロットとの深い「」も深く感じ取っており、別れるのが名残惜しく、とてもさびしい気持ちになるのである。


パイロットから別れを告げられたわけではないのである。むしろパイロットは「ねえ、きみが笑うのを、また聞きたい・・・」、「ああ、きみの笑い声を聞くの、大好きだ!」、「きみのそばを離れない」という思いを、気持ちを伝えられるのである。


切実な思い

振り返ってみると、男の子もパイロットと同じく「不時着」しているのである。同じ境遇であり、少なくとも先に地球に到着している男の子には、パイロットの「焦る気持ち」に対して共感はしていると思われるのである。


そしてこうも思うのである。男の子がバラと過ごした時間と、パイロットと過ごした時間(一週間)とは確かに大きな差はあると思うのだが、命の危機をともにした経験と、それに費やした時間は、漠然と過ごした時間を凌駕する場合もあるのではないかと思うのである。


男の子の心中はどうだったのであろうか。しかしこの時、自分の星に帰らずにパイロットと一緒に過ごすというカードを男の子は受け入れないのである。


むしろパイロットも自分と同じ気持ちだと、相手を理解し「やっぱりだめだよ。つらい思いをするよ。ぼく、死んだみたいになるから。でも。それはほんとじゃないんだ・・・」と、ねぎらいの姿勢を幼気けなくみせるのである。


みたいになる」、「ほんとじゃない」という言葉には、ヘビからの助言があったに違いないと思いたいのである。本来的には「」は全ての終わりであり、終焉となるのであるが、それは地球での考え方であって、「ぼくのところ」では違うという教えである。


ヘビに噛まれると体は抜け殻となるのではあるが、「目に見えない」存在となって、星に帰ることができるのであり、終焉を迎えたわけではないのだと教えてくれるのである。見上げた夜空の星から笑いかけ、鈴を鳴らしてくれるというのである。


解けるとは


ここにきて、一つ大きな疑問が沸きあがってくるのである。明らかに不自然だと思う読者も多いのではないだろうか。男の子は七番目の星「地球」にやってくるまでの間、いくつもの星々を渡り鳥の方法で訪ね歩けていたはずである。


しかし、バラの待つ故郷に帰るときには「」を選んでいることである。著者の伝えたかったことが何なのかを考えてみたのである。


男の子が、地球で初めて会話したのが月色をした「ヘビ」であった。そのときヘビはこういっているのである。「大型船で運ぶよりもっと遠くに、きみを連れて行けるぜ」そして「いつか、もし故郷の星にどうしても帰りたくなったら、おれが力を貸そう」と。


男の子は、パイロットに故郷である星への帰り方を聞いていない。帰り方を教えてくれたのはヘビだけである。「おれにはすべてが解けるから」と自信満々なヘビの言うことを単純に信じたのかもしれないのである。


一方、一番目から六番目の星にはそう長くは滞在していない。しかし、七番目の星「地球」には一年間滞在しているのである。この一年の間にヘビやキツネやパイロットと遭遇し、いろんなことを学んでいるため、安易な決断には至らないのではないかとも思うのである。


また、地球の一年と、男の子の星の一年のスピードが異なっている可能性もあるのではないだろうか。つまり、子供から大人へ急激な成長をしていると考えることもできるのではないだろうか。


ただ、男の子は地球に来たとき時のことを振り返って「このすぐ近くに、落ちてきたんだよ・・・」とパイロットに伝えているのである。「落ちてきた」のであれば渡り鳥が途中で男の子を落とさざる得ない何らかの理由があったのではないだろうかと考えるのである。


脱出ロケット

しかし、その理由というのは「地球」という星が渡り鳥の侵入を拒み、故郷に帰るには渡り鳥はもう呼ぶことができない。ロケットでもない限り不可能であるということを地球で既に学び取り、最終的に唯一の方法であるヘビに願い出たのかもしれないと思うのである。


推察としては、故郷にいる唯一無二のバラと絆を結んだ男の子は、永遠に責任を持っており、どうしても自分の星に帰りい、帰らなくてはいけないといった思いから、その目的が手段を顧みないほど強くなっていったのではないだろうか。


大人は「生きていればいつか会える、夢でも会える。死んでは駄目だ」という。当たり前な真理である。しかし子供には通用しないのである。会いたい人に会えるのならと、最終的には直感で判断したのかもしれないのである。


解ける」には抱えていた不安や、心のつかえがなくなる様をいうのであるが、ヘビの言う「解ける」とは、単に能力を持って現状を「解消」してあげるという意味なのか、もしくは「」をもって強制的に「delete」するという意味なのかの判別が未だ難しいのである。


六番目の星の「地理学者のおじいさん」の勧めもあって、「地球」を目指したのは男の子自身ではあるが、「大切なものは目に見えない」ということを知ることと引き換えに「地球」で命を落とすこととなったのは、読者にとってはあまりにも悲しい結末と言えるのである。


そして同時に、著者は「大切なものは目に見えない」と「」は等しく大切なのであると伝えたかったのではないかと思うのである。


外から見た地球


まとめ


著者:アントワーヌ ド サン=テグジュペリは、著書「星の王子さま」を通して語りかけてくるのである。「本当に大切なことやモノは、決して目に見えるものではない」と。「そして今一度自身に置き換えて思い返してみなさい」と。


自分にとって一番大切な何かも、傍にいるというだけでその気持ちに気づけないものだ」と教えてくれるのである。何時も傍にいた「バラの花」を置き去りにして様々な惑星を旅する王子をみて、読者自身が今一度自身と重ね合わせてほしいという願いが伝わってくる。


また、受動的で問題意識を持たず、自発的行動が伴わない単純で自己的な欲求には「何の価値も持たない」のだと教えてくれるのである。


最後に、人の死とは決して悲しいものでは無いのだということを教えてくれるのである。昔「人は死んだら星になる」と聞いたことがあった。このことを真面目に「それが本当だったら」と思ってみたのである。


本書を読むことでそう思えることができたのだ。大切な何かと肌身離さず四六時中傍にいることはない。であっても繋がっていると本心から思えるのであれば、どこに居ても何ら変わらないのである。


ただ、欲を言えば「触れたい」・「見たい」・「会話したい」と五感で感じていたいとはどうしても思ってしまうのである。そのことは不変であり仕方のない事実だと思うのである。


個人的な見解による「読書感想文」でしたが、少しでも興味が沸いた方がいらっしゃればとても嬉しく思います。



心を揺さぶられたオススメの一冊



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