in大分県⑱

日本の城ランキングNo.5位になったことのあるお城

「岡城」跡

〒878-0013 大分県竹田市大字武田2889

大分県にはお城跡が多数あります。今回は、中でも立派な石垣で有名な山城である岡城址に参りました。岡城は標高325mの山に聳える難攻不落の堅城で有名です。豊臣秀吉の命で初代藩主:中川秀成が文禄3年(1594年)に石造りの城に造り変えたと言われています。その後、400年の長きに渡り君臨し続けるのです。

もともと岡城は、1185年に武将 緒方三郎惟栄が、源頼朝(幼名は鬼武者)と仲違いをしていた弟の義経(幼名は牛若丸)を迎える為に築城したそうです。しかし、惟栄が大物浦(現在の兵庫県尼崎市大物町にあった淀川の旧河口)を出航しようとしていた際に頼朝側にて捕縛。現群馬県上野国の沼田荘に流されてしまいます。

では、その後はと言うと、1369年豊後国守護大名であった大友氏の分家で志賀氏の居城となった。時は流れて1586年から翌年に掛けて、大友氏により薩摩方面への勢力拡大を図るため南下したことがきっかけとなり、両者は九州全土の覇権争いに突入。「豊薩合戦」が勃発。薩摩軍の統率の取れた圧倒的な戦力に対し、大友側の内情はすこぶる悪く、内乱や離反が相次ぎ、戦にも負けが込んできます。

豊後・筑前・肥前・築後・豊前・肥後の6か国にまたがっていた大友領で次々と反乱が起こってしまいます。

薩摩軍を率いる島津義弘は3万の軍を率いて肥後路から豊後に攻め入り、高城・鳥岳城・津賀牟礼城・高尾城・片ヶ瀬城・田中城・小牧城が陥落し諸城を攻略される中、この時、齢18の志賀親次だけは、ここ岡城を守り抜いたのです。

岡城の石垣に限ったわけではありませんが、職人の技術力や大名の力をアピールするために多くの技法を用いて積み上げられています。一般的な「野面積」や「乱済積」「布積」の他に「切込接ぎ」や「打ち込み接ぎ」、「谷積み」や「算木積み」など多くの石垣を見る事が出来ます。中でも「鏡石」は大きな石を埋め込み外部にアピールしています。岡城では大手門や太鼓櫓門で見る事が出来ました。

敷地の中に入ると、そこは大きな迷路になっており、敵の侵入に備えて撹乱するように造り込まれているように感じます。しかし、この高い「算木積み」の石垣は容易に攻め込めないと思わせるには十分ではないでしょうか。驚くのは海抜325mの山頂にどうやってこんなに多くの石を運んだのかと言う事。想像を絶する重労働であったことは容易に想像できますね。

見てください、断崖絶壁に積み上げられたこの石垣。しかもこの三の丸は屏風のようにジグザグに積み上げられ、このことで攻め入る敵を2方向から矢攻め出来るようになっているそうです。「横矢か掛り」と言うそうです。

現代ではこの景色を「手つかずの大自然」と言ったりするのでしょうか。しかし、当時は全国どこでも同じような自然があって、アスファルトも、電車も、車も、エアコンも、コンビニも、電気も、水も簡単には手に入らない状況です。当たり前だったにせよ、大変だったことに変わりはありませんね。

「はるこうろうのはなのえん~♪めぐるさかずき~かげさして~♪ちよのまつがえわけいでし~♪むかしのひかりいまいずこ~♪」

ご存知「荒城の月」の一説です。この曲を作曲した瀧廉太郎と作詞した土井晩翠が織り成した歌曲ですね。ここ岡城を遊び場として、幼少期を過ごした瀧廉太郎が作曲したそうです。つまり、冒頭の荒城とはここ岡城だったのですね。

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